薔薇の追憶 (18)

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『ああ、これは申し訳ない。しかしあなたは随分と思い切った、贅沢な注ぎ方をなさいますな』
『そうでしょうか』
 老爺の言葉に、わたくしは首を傾げました。陛下はよく戯れに、そのお酒をわたくしの身体に零しながら召し上がったりなさっておられたもので、大半をシーツが吸い込んでしまうという事もままございました。彼はそうした生活の中で形作られたわたくしの感覚というものが世間からかけ離れている、と驚いたのでしょうが、当時のわたくしには、そこまではよく理解できませんでした。
『今、王はどんな御様子なのですか。どこにおいでになりますの』
『現在は、第十七宙域で遠征中のはずです。軍師として王后を伴っているとか。彼女を置いて長く宮を空けると危険だと思うのかもしれませんな』
 これを聞いた時のわたくしの気持ちは、きっと御理解頂けますまい。
『お羨ましいこと・・』
『うん?何か仰ったか』
『・・いえ』
 王后さまはそれほど危険な方でありながら、尚その存在を認められ、必要とされているのです。奥方様としても、軍人としても。慰み者としてすら拒絶されたわが身を引き比べ、ひどく情けない思いが致しました。初めて、サイヤ人に生まれたかったと感じたものです。せめて力があれば、戦士としては必要として頂けたかもしれない。陛下のお側に侍る事も出来たかもしれません。陛下の下で生きられる強い力が欲しかったと、切実にそう思いました。
 ちびちびと杯を干しつつ老爺は話を続けました。どこまで正確かは不明だが、と申しながら後宮の見取り図を広げ、そこで昔起こった様々な事件や悲劇について語ってくれたり、歴代の王子や王女、歴史に名を刻んだ戦士や側妾たちについて話してくれました。ですがわたくしは生まれて初めて覚えた惨めな感情に打ちひしがれ、まともに彼の話に耳を傾けることが出来ませんでした。
『お嬢さん、今夜はお開きにしましょうか。またお寄り下さったら、いつでも続きを話して差し上げる』
『・・お気を悪くなさったのでしょうか』
『いいえ。だが、今あなたに必要なのは私の話ではない。安心できる場所に戻って、少し休まれると良い』
 しょんぼりと俯いたままのわたくしを見て何か察したのでしょう、失礼な振舞いがあったかもしれないにも関わらず、彼はいたわるようにそう申し、老人にしては綺麗な指から燻したような渋色の金属のリングを外してわたくしに手渡しました。
『差し上げましょう。あなたが下さったもののように高価ではないが、この界隈では役に立ちます。ここいらを行き来するときには必ず嵌めておいでなさい』
 双頭のドラゴンが彫られたその指輪は随分重く、いわく有り気でした。おそらくは、この危険な通りで身を守ってくれるものなのに違いありません。
『ありがとうございます』
 わたくしは気力を振り起こして笑顔を作り、彼に頭を下げました。
 どこをどんな風に歩いたものか、あまり憶えていません。けれど、左手小指に嵌めた指輪のお陰だったのかどうか、わたくしはその危険な場所を、真夜中であったにも関わらず無事に通り抜ける事ができました。店の出入口まで見送ってくれたグラムが、それを手に持ったまま出てゆこうとするわたくしに仮面を付けるよう促してくれた事も幸いしたかもしれません。
『まったくなんというお転婆さんなのだ、あなたという人は』
 ブラックストリートを抜けた辺りで、事情を知って迎えに来たルブと出会いました。
『陛下の事は忘れなさいと言ったでしょう。それを一人であんないかがわしい通りにまで出向くなぞ』
 誰が見ても奇異に感じる格好だったせいなのか、それとも侍女から聞きだしていたものか、ルブはすぐにわたくしをわたくしだと見破って近付いて来て、がみがみと小言を申しました。ですが彼は、わたくしの指に鈍く光るリングを見ると軽く溜息を落とし、それから小さく吹き出しました。
『あの爺様まで落としたんですか、あなたは』
 ルブはまだしょげ返っているわたくしの肩を守るように抱き、館へと連れ帰ってくれました。わたくしがぐずぐず泣いている事に気付いていたでしょうが、彼はそれ以上何も申しませんでした。

 それから半年余りが過ぎました。相変わらず陛下を忘れるという事は出来ませんでしたけれど、不思議なものですね、一生止まらないのではないかと思っていた涙も、そのころには滅多に零れなくなっておりました。少し痩せてしまったのも、その方が洗練された雰囲気で良いでしょうと申して、ルブなどは喜んでくれたりしたことでございました。
 少し立ち直ったわたくしは、何か生き甲斐が欲しいと考えて色々な事に手を出しておりました。器用なほうなのか、絵を描いても歌を歌っても竪琴を爪弾いても、そこそこ良いところまで行くのです。ですが、それらは熱中出来るほどのものではありませんでした。そんな中で面白かったのが、衣装デザインと調香だったのです。
『香りに対するセンスの高さは、私が思っていた通りですよ。でもドレスのデザインはねえ・・』
 その可愛らしい頭のどこから、こんな変なものがひねり出されるのでしょうね。ルブはそう申してけちをつける事もございましたが、わたくしはすぐに夢中になり、ルブが以前申しましたように、将来は起業でもしてみようかとまで考えるようになっておりました。

 ようやく穏やかに日々が流れ始めた、そうしたある夜のことでございました。
『意外なお客様ですよ、お会いになりますか』
 随分と更けてから訪ねて参ったルブが、少し困ったような表情で声を潜めてそう申します。
『どなたさまですの』
『今は一番会うべきではない方です』
 けれどその台詞が終わらぬうちに部屋の扉は開かれ、廊下の灯りを背に鋭いシルエットが浮かび上がりました。
 陛下が、戻られたのです。
 


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