薔薇の追憶 (15)

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「別に珍しい話じゃない」
 浴室から出ると、バルコニーにベンチが用意されていた。木製のそれの上にはふんわりと乾いた布が幾重にも重ねられ、即席の寝台になっている。さっきの幼女などが調えたものなのかもしれない。酔いと熱さと脱力感でぼんやりする頭の隅でちらりとそう考えながら、彼は促されるままその上に伏臥し、くぐもった声を上げる。
「気に入らないなら大人しく後宮になど引き下がらずに、王を殺せばいいんだ」
「まあ、荒っぽい事をおっしゃいます」
 傍にある丸テーブルの上に、青く透き通った一抱えほどのガラスボウルが置いてあり、中ほどまで水が張られていた。この水面にも、頼りなさげな薄色の花弁の小さな花が、いくつも浮べられている。
「でも王后陛下は、王陛下の御威光を害(そこな)おうと試みられた事もあったようなのです」
 ヴァイオラは薄手のローブで身形を整え、氷を入れた銀色の器を手に、ベンチの側らに据えられていた小さな丸椅子に腰を下ろして低く呟いた。
「ほう」
「それも一度ではなかったのだとか」
 女が氷を一掴みずつ青い器に移してゆく。水の中に泳ぐそれらと、器の壁面が触れ合う涼しい音が響いた。彼女は半分ほどをそうして移してしまうと、アイスクーラーの縁に掛けてあった小さな白布を氷水に沈めた。
「何をしている」
「これでお体を拭きますの」
 幾度か水面を行き来させたのち、彼女はそれを水から引き上げて固く絞り、程よい大きさに広げる。
「出浴後、王陛下に涼んで頂こうと考えついたのです。陛下はそうして、色々なことをわたくしに教えてくださいました」
 背を擦る布の冷たさが何とも心地よく、彼はひっそりと溜息を吐いた。何もかもがそんなふうだ。そよそよと吹き抜ける風が心地よい。腹這いの前面を受け止める、夜気に冷えた布が心地よい。水色の花が放つものなのか、あるいは香料が混ぜ込んであるのか、氷の揺れる水面からはひんやりと爽やかな香りが漂っている。頬の下敷きになっている左手はそのまま、彼は右腕を伸ばして器の中に甲から先を差し入れた。指の背にぶつかった塊を取り出し、小さな花弁を絡みつかせたまま眉間に押し当てると、皮膚や骨を通して脳髄が冷えてゆくような感覚があった。手の中で溶けて行くそれを、塗るようにして顔中に滑らせる。鼻孔に入りかけた雫を小さな鼻息で吹き飛ばした彼を見て、女が微かに笑った。
 睫毛に垂れる雫のむこうに、透き通った器の深い色合が見える。何という事もなしに眺めていると、真っ青なマントが風に翻る音が、耳の奥に甦った。
(王に刃向かったか。さすがは俺の母親だというだけの事はあるな)
 顔はほとんど思い出せない。数えるほどしか見た憶えがないのだ。父は比較的そういった事には甘かったという気がするが、母が通り過ぎてゆくとき、彼はいつも顔を伏せて敬礼させられていた。
『御尊顔を拝して良いのは、母上様がそのように仰られたときだけです』
 王后とは、尊貴の極み。王の妻であり、母なのですから。やかましい傅人は、浮かされたように彼にそう言って聞かせたものだ。
(あいつは何かにつけて大袈裟な奴だったな)
 そうしてやっと顔を上げた彼の目に映るのは、小さく遠ざかる青い背中と、そこに流れ落ちる黒髪だけだった。
『ごきげんよう、王子』
 時に彼女は、彼の頭上にそう声を落としてゆく事もあった。だが母がそれ以外の言葉を口にする場面に居合わせた自分を、彼はほとんど思い出せない。


『王后は頭の良い人です。私が今話したように、可能性はいくつもあるという事に思い至らなかった筈はないのだ。だが彼女は、夫を奪ったのは王だと決めつけて掛かったらしい』
『そんな・・』
『無意識にか意識してか、攻撃対象を見出そうとしたのかもしれませんな。良人が誰に殺されたのか謎のまま責めるべき相手を見出せないでいたなら、彼女は出口を失った自らの激情に蝕まれてしまったかもしれない』
 そう言って、老爺はテーブルにあった薄桃色の液体が入ったグラスに手を伸ばしました。それはわたくしが部屋に入った時からそうしてそこにあったのですが、彼は少し唇をつけ、深い皺をもっと深くしながら顔をしかめました。
『グラム、そこに居るかね』
 老爺が分厚い帳の向こうに声を掛けますと、その重ね目から、ぬうっと巨大な指が差し入れられました。続けて先程わたくしの体を調べた大男の、鼻から上の部分が現れます。
『お呼びで、マスター』
『これはもうぬるくて飲めやせん。新しいのを作って持ってくるように上に言っておくれ』
 窮屈そうに覗いた顔に、グラスを突き出して老爺がそう命じますと、グラムと呼ばれたその男は大きな手を伸ばし、その身体に似合わぬ繊細な指先で (先程触れられたので、わたくしはそれを確信していました) そっとつまんで受け取ります。
『お嬢さん、あなたは何になさる』
『いえ、わたくしは・・』
『老人に付き合うのはお嫌かな』
『まあ、そんなこと』
『それは良かった。遅くなったが、飲み物くらいのおもてなしはさせて頂かねばな」
『ではお言葉に甘えて、フェルナンドを』
 当時のわたくしには、お酒の知識など殆どありませんでした。ただ陛下がよく召し上がっておられたお酒がそれで、他には碌に知りませんでしたから、その名を口にしたのです。
『む、フェルナンドですか。お若いのに口が肥えておられる』
『いえあの、別に何でも結構です。ただそれしか分からないものですから・・』
『いやいや、用意しますとも。グラム、すぐ上にそう伝えるんだ』
『しかしマスター、在庫がありません』
『無ければ調達して来ればいい』
『そこらで手に入る酒じゃありませんよ』
『耳が悪くなったのかい。調達して来いと言っただろう。私の顔を潰すつもりかね』
『―わかりました』
 遣り取りを聞いていて、さすがにそのお酒が非常に希少で価値の高いものであるらしい事に気付きました。わたくしは自分のうっかりした一言が引き起こした事態にいたたまれない気持ちになりましたが、そこで余計な口出しをすれば、機嫌良く話をしてくれている老爺が気を悪く致しかねません。
『すみません、ありがとうございます』
 自分の無知を呪いながら、わたくしはそれだけ言って彼に頭を下げました。
『いいえ、こちらこそみっともない所を見られてしまった』
 老爺は小さな顔を横に振りながら、待っている間に話を進めましょうかと椅子に座り直しました。


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