薔薇の追憶 (11)

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 酔うほど飲まねば問題ないのだ。
 そう思って口にした酒だが、思ったより影響は大きいのかもしれなかった。また味が悪くない。小さなグラスだと油断したせいもあったのか、五杯、六杯と口にするうち、ふわふわと心地良くなってきた。
「湯を使われませ」
 この言葉にも『覚醒』した状態の彼ならとりあわない筈だった。だが彼は勧められるまま浴室に足を踏み入れ、豪快に衣服を脱ぎ捨てると、乳白色の湯の中へ身体を浸したのである。
(酔ってるな)
 絶対酔ってる。自分でそう確信しながら、しかしその酔いも湯も、何とも良い心地なのだ。
(今キュイの野郎が踊り込んできやがったら、いかにもまずいな)
 深刻な場面展開になるはずだが、彼はその様子を想像してくつくつと忍び笑った。あの醜い面相に、素っ裸の自分―
「ケッサクだ」
 咽喉を仰け反らせ、彼は一人小さな笑い声を上げる。天井からぼんやりと注いでいるのは、ラタ石が発する光だ。同じ素材が、広い浴室にそそり立つ四本の柱にも使われているようだった。彼はその中央で、四方を透布に囲まれた浴槽の中、ついぞ経験のないほど寛いでいる。酒に溺れ、身を滅ぼしていった兵士達の心中が、微かに垣間見えたような気がした。
 ふと、ノリラの香が強くなる。はっと振り向くと、丁度女が帳の割れ目から滑り込むところだった。
「楽しそうでいらっしゃいますね」
 広い浴室に響いたまろやかな声に、彼の酔いは吹っ飛んだ。静々と浴槽に近付いてくる女は、これがまた妙な格好をしている。
 女は黒く長い薄物を纏っているのだが、その布に赤い生花で装飾が施されている。それは彼女の上半身をびっしり覆っていたが、膝頭に掛けてまばらになってゆき、そこから下には白い脚が透けて見えるだけだった。
「出て行け!誰が入っていいと・・」
 強く言ったつもりだったが、語尾が掻き消える。彼女は彼のすぐ傍まで近づいて床に膝をつき、これがノリラの花なのですよと呟きながら、胸の辺りの一輪を布から毟って湯の中へ浮かべた。細かな網状の布に、短く切った枝の根元を引っ掛けてあるものらしい。花首が失せたその部分で、女の肌がほの白く顔を覗かせている。
「お手を煩わせてもよろしい?」
 そう囁くと、女は出口の方を鋭く指したまま固まっている彼の右手を取り、自身の乳房を覆う花弁へと導いた。


 あなたさまの御誕生について伺ったのは、それから半年ほど後の事でした。
 わたくしとて女でございますから、身の程を弁えない事だと思いながらも、王后陛下に畏れ多い気持ちを抱いた事もございました。王陛下はわたくしを可愛がって下さいましたが、側妾の一人として後宮にお迎え下さろうとはさならなかったのです。
『後宮には、あれが君臨しておる。ここのように自由ではおられぬぞ』
 わたくしが不満そうな顔をしておりましたのでしょうか、それでも陛下は、望むなら迎えても良いが落ち着いてからだ、というような事を仰っておられました。わたくしはと申しますと、無邪気なものでこれでずっとお傍にいられるのだと喜び、お城はどんな所ですか、トキャツ(当時飼っておりました小型哺乳動物の名前です)は連れて行ってもいいでしょうかと大はしゃぎでした。
 殿下は、王章を手に取った事はおありですか。陛下が常にお首から下げておられた、あれです。
 わたくし経験があるのです。湯を使われる際など御身から外されるのですが、なんでも王権を象徴する大切なものなのだとかで、決して触れてはならぬと言い渡されておりました。それなのに、ある日陛下がいつものように湯浴みをなさっておられるとき、つい魔が差したとでも申しますか、それほど貴重な何かというのはどういったものなのだろうと手が伸びてしまったのです。御存知ですか、あれは中央の部分が外れるようになっていて、小さなものなら中に仕舞っておけるようになっております。わたくしはそのことに気付き、随分固くて苦労致しましたが、えいとばかりにこじ開けました。
『・・・?』
 中には、小指の先ほどの小さな青い布包みがありました。開いてみると、赤い紐で縛られた小さな黒髪の房です。すぐに思い至りました。陛下がたった一度だけ、寝物語に聞かせてくださった王后陛下のものだと。
『何をしているのだ』
 目の前が暗くなる思いで包みを元に戻した所に、背後で低い声がしました。飛び上がらんばかり驚いてその場にひれ伏しますと、恐ろしいほど静かな声で陛下が問うてこられます。
『見たのか』
『・・・・・』
『物見高い事だな。命が惜しくはないか』
『申し訳ごさ・・』
『謝罪など要らぬわ』
 もうそなたは信用出来ぬ。そう仰ってローブを床に脱ぎ捨て、帰り支度を始められた陛下をわたくしは泣いて引き留めましたが、視線も合わせて下さいません。それでも取り縋りますと、陛下はひややかな目でわたくしを見下ろし、こう言い放たれました。
『今生の別れだ。もう二度と来ぬ』
 この館はそなたのものだ。良きように致せ。マントを払って部屋を出る陛下の背中に、わたくしは必死で叫びました。
『お会いできぬのなら、死にます!』
 あの時、振り向きもせずに仰られた陛下のお声が忘れられません。
『良きように致せ』
 それから一年余り、陛下のお越しはございませんでした。


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