薔薇の追憶 (10)

 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next

「王后陛下のことは憶えておいでですか」
 テーブルの傍にある銀色のワゴンに、飲み物の支度が調えられている。女は立ち上がり、赤く透き通った液体を小さなグラスに注ぎながら、そう切り出した。
「いや」
「何も?」
「・・いつも青い長衣を纏っていたな」
「ああ」
 特別な色です。王后と王太子にだけ認められた色。ヴァイオラは呟き、再びソファに腰掛けていた彼の前に、ごく静かに飲み物を置いた。
「少し、お酔いあそばせ」
「・・必要ない」
 用心しているという訳でも無かった。たとえ彼女が何かの理由で彼を害そうと企んだにせよ、不可能だ。酒に毒を混入させたとしても、彼の鋭い嗅覚や味覚を誤魔化せるものではない。だが、酔えば判断が鈍る。思いも掛けない行動を取る。下手をすれば身体能力にも影響が出る。彼はそうやって自滅して行く兵士を、何人も見てきた。彼の送る生活に於いて、酒は禁忌だ。彼には、だから飲酒しないという習慣が身についていた。
「お嫌いですか」
「好悪が分かれるほど飲んだ経験がない」
「ではどうぞ。ここは戦場でも、基地でもありませんわ。あなたさまのお命を狙う者など、どこにもおりませんもの」
 彼女は跪き、実にさりげなく彼の腿に手を置いた。一拍遅れてぴくりと肉を震わせた彼の様子には、気付かない振りを決め込んでいる。
「そしてどうぞ、わたくしの昔話を聞いてやって下さいませ」


 初めて陛下にお会いしたのは、あなた様の御誕生より少し前のことでございました。側近方と共にこの星にお立ち寄りになられたのです。
 わたくしは、どうやら幼い頃に母星をなくしたらしく―どういった経緯でかはよくわかりません―物心ついた時にはルブの手許にいて、大切に養育されておりました。
『あなたはある惑星の、やんごとない御身分の方だったのですよ』
 あなたが心から望み、努力を惜しまなければ、元々の御身分以上の栄達も夢ではありませんとも。
 最高の娘たちを育て上げるという事は、時間的にも金銭的にも大変な負担です。けれどこの星には、様々な星から様々な人々が集って来られますでしょう。王侯貴族といった御身分の方も少なくありません。娘たちがそういった方々のお目に留まった暁には、ルブは大変な見返りを得ます。ですから、彼はそれはそれは大切に娘たちを育てるのですよ。けれど、不思議でございますね、それを弁えてなお娘たちを惨めな気分にさせない何かを、彼は持ち合わせているのです。
 とは申しましても、やはり簡単に勤まる事ではございません。肉体的にも、精神的にも。覚悟を決めてはいても、いざお客様をお迎えせねばならない年齢に達しましたときには、さすがに心穏やかではおられませんでした。
 そうしたある日、遂に「赤の間」へ―主に宴席を張る部屋なのですが、そこへお呼びが掛かりました。通常、娘たちはルブによる「最終講義」を受けてから、お客様をお迎え致します。なのに、私は突然だったのです。
『さっきあなたを庭で見掛けた方がおられてね、御指名を頂いたのだ。務めてくれますか』
『何をすればよろしいの』
『酒席のお相手を。その後の事は、私がお願いして今夜のところは他の娘で御勘弁頂くようにしますから』
 急ぎ化粧を施され、当時部屋住みだったわたくしなど見た事も無いような豪華な衣装で仕立て上げられましてね。もう、一体そのお客様というのはどんなに御身分の高い方なのかと、重責に眩暈がしそうな思いでした。
 いざお部屋へ上がると、なにやら恐ろしげな様子の方々が十人ばかりもおいでになって、皆様それぞれに娘たちを侍らせ、既に随分と酔っておられるような御様子でした。
『参れ』
 中央奥に掛けられた一際立派な方が、わたくしをお召しになりました。それが王陛下だったのですけれど、ひどく緊張していた上に、射竦めるようにわたくしを御覧になるので、実は気を失いそうだったのです。けれど、ルブの薫陶の賜物でしょうか、なんとか自分を保ったまま御前に辿り着く事が出来ました。
『注げ』
 陛下のお傍には、一際美しい三人の姉たちが侍っていたので、わたくしは少し安堵致しておりました。わたくしの至らない部分は、彼女らがカバーしてくれるでしょうから。なので陛下が杯を差し出された時にも、震えを抑えてお酌することが出来たのです。
『近う』
 杯を干すと、陛下はわたくしを膝の上にお召しになられました。
『これは珍しい、紫の瞳か』
 間近で拝見すると、陛下はそれほど恐ろしげな方にも見えませんでした。お優しそうなお顔だとは申せませんでしたけれど、お鼻がすんなりと高くて、あなたさまより少し薄色の虹彩が印象的で。
『名をやろうぞ』
 陛下がわたくしにヴァイオラの名を下さったとき、わたくしは陛下のお膝の上で幾分寛いだ気持ちになっておりました。隆々としたお体なのですけれど、布を挟んで感じる意外な弾力や温かさが心地よく・・
『そなた、伽を致せ』
 ですからそのように仰られた時にも、特に抵抗も無く頷いておりました。それを聞いた姉たちは慌てておりましたが、彼女たちにルブを呼ぶ間を与えず、陛下はわたくしを部屋へ拉致なさったのです。
『陛下、お約束が違います』
 翌朝ルブが抗議致しておりましたけれど、わたくしにはピンと来ませんでした。あの大きなお身体で破瓜されるのですから、苦痛が無かったと言えば嘘になりますが。その時には既に、わたくしは陛下をお慕いするようになっていたのかも知れません。
『あの娘に館を与える』
 けれど陛下のその一言で、ルブは口を噤みました。
『聞きましたか、なんと運の強い方だ。陛下があなたを御落籍下さるのですよ』
 おめでとうございます。そう言って、それまでわたくしの親として師として君臨してきた彼が、わたくしの前に跪いたのです。他の娘たちも、姉たちも。
 その日を境に、わたくしの人生は一変しました。


 Gallery  Novels Menu  地下室TOP  目次  Back  Next