その花の青は(3)

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 赤い光が目を刺して、ベジータは我に返った。雨が止んでいる。
 ありがとう、ベジータ君。
 妻の父は、リビングの出口で彼に向き直り、真面目な顔で丁寧にそう言い、出て行った。それが、彼がこの世に遺す最後の言葉だとでもいうような調子で。
 何だ、あれは。
 ベジータはその様子に軽く衝撃を受け、何のことだと訊き返す機を逸した。何だったのだと少し考え込み、それから自分の思考に落ちて行ったのだった。
 沈みゆく陽の、最後の光が差している。大窓を開け、中庭に出た。濡れた土が放つ独特の匂いが辺りに満ちている。ふと、足元の花に目を留めた。紫掛かった鮮やかな青い花弁に、大小の露を抱いて群れている。半分はその表面で光を受け止め、夕陽の色に染まっていた。
「何してんの」
 振り向くと、妻が立っていた。検査を終えて戻った所らしい。せり出し始めた腹に軽く手を添え、微笑みながら近付いてくる。
「ああ、それね。綺麗よねえ、なんて花なのかしら」
 さすが母さんね。センス良いわ。彼の隣に立ち、彼女もそれに目を落とした。わあ、すてき。髪をふわりと靡かせる柔らかな風に揺られ、花弁の上をころころと転がる露に、彼女は嬉しそうな声を上げる。
「同じだ」
「え?」
 彼はそっと妻を引き寄せ、その肩に顔を埋める。
「ベジータ?」
 同じ色だ。
「なあに?どうしたの」
 妻は彼の背を抱き、あやすように優しく撫でた。腕の中にあるやわらかな温かさに、その指先の注ぎ込む小さな感触に、薄紫の髪のむこうで風に靡く青に―いっぱいに広がる彼女に―、彼は途方に暮れ、瞼を下ろす。
 小さな気配が、彼に存在を主張する。彼女と自分の間にあるそれに、彼は意識を集中させる。結びあい、溶け合った彼らが、力強い鼓動を刻み、確かにそこに息づいている。
 そのとき、その場所からきゅるる、と小さな音がした。思わず目を開く。彼女が吹き出し、体が離れる。
「お腹空いちゃった」
 いいとこだったのに、ごめんね。そう言って覗き込んでくる彼女から目を逸らし、馬鹿が、と吐き捨てた。
「何くだらん事言ってやがる」
「あら、抱きついてきたのはどっちだったかしら」
 言葉を失い、舌打ちで誤魔化すしかなくなった彼の左手を自身の両手で包み、引き寄せながら彼女は笑う。
「入ろ?ちょっと早いけど、夕飯にしましょうよ」
 この子に全部吸い取られちゃうのよ。すぐお腹が空くの。トランクスのときもそうだったわ。
 彼の目は、背後の彼にそう話しかけながら、リビングの窓の段差に差し掛かっている彼女の足元に落ちている。彼の右手は、あんたは何が食べたい?と振り返る彼女の腰の、触れるか触れないかの位置に伸びている。彼の左手は、それをふわりと包む彼女の小さな左手に、絡め取られて繋がっている。
 いいだろう。
 変わったのかもしれない。だがどう変わろうとも、自分は、自分だ。この先どんなふうに姿が変わってゆこうとも、彼の妻が、彼の妻であるように。
 いつか彼らのいずれかが、相手を残して逝くだろう。
「なあに?じっとみつめちゃってさ・・そんなに綺麗かしら?」
 ならば、大切なのは過ぎて行った時間の中の残像ではない。
「自惚れが過ぎる」
 二度と、見失ってはならない。
「あらあ、みとれちゃってた癖して」
 共に生きよう。
「・・一生言ってろ」
 その瞬間まで。互いが望む限り。
「ふふ。ねえ、スパニッシュなんてどう?」
「いいんじゃないのか」
「よし、決まりね。セットしてくるわ」
 こころもちゆっくりと歩く後ろ姿がダイニングへと消えてゆく。常より幾分細く感じられるその背中にちくりと痛みを覚え、目を逸らす。彼女は腹の子に、文字通り命を、与えている。

 風が流れ、窓が開きっ放しになっていることを思い出し、彼はそこに近付いた。陽が沈み、雨が洗い流した空には、澄んだ青が濃く、淡く、広がっている。
 この地球(ほし)には、お前のいない場所はないんだな。
「まったく、厚かましい女だ」
 呟いて、彼は薄く笑う。
「なんか言った?」
 彼は妻を振り返った。首を傾げて近付いてくる彼女の色に吸い込まれそうな気がして、薄く睫を伏せる。
「いや」
「そう?あと半時間ぐらい掛かるわ」
「そうか」
 近付いてくる息子の気を感じながら、ちょうどいい具合だろう、と小さく言い、彼は静かに窓を閉めた。

 2005.7.31


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