その花の青は(2)

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「おや、めずらしいね」
 のんびりした様子でそう言いながら、ブリーフ博士がリビングに現れた。手には空と思しきカップを下げている。彼の肩は昔から黒い猫に占領されているが、あれはずっと同じ猫なのか、それとも何代か入れ替わっているものなのか、ベジータは知らない。
「君がこんなところに一人でいるなんて」
 リビングの隅に最近設置されたサーバーから、手にしたカップにコーヒーを注ぎ、博士は彼の注意を促して、どうだい、と僅かに掲げて見せた。ベジータは小さく首を振り、必要ない意を伝える。博士はふむ、とひとつ頷いて、カップを手に彼の斜め向かいの一人掛けのソファに腰を下ろした。
「ブルマはどうしたい?帰って来てたと思ったんだが」
 博士は小さな音を立ててコーヒーを啜り、彼に娘の所在を尋ねる。
「いつもの検査だ。病院に行ってる」
 彼はテーブルの上の煙草に伸びる博士の手を眺めながら答えた。いいかい?博士は彼に確認したが、返事を待つ気は無いらしく、ゆったりとした澱みない動作で一本取り出し、髭に隠れた唇に咥える。煙草と一緒に置いてあった安物のライターで点火しようとするが、なかなか思うように行かない。何度もやり直し、やっと火を出すことに成功した。じじ、という微かな音を立てて煙草の先が光る。
「トランクスは、まだ学校かね」
 ライターを胸ポケットに仕舞いながら、博士は更に彼に問う。
「ああ、まだ帰ってない」
 授業は終わっている時間だが、彼はまっすぐ家に戻ってくるということがあまり無い。
「友人と過ごすのが面白い時期なんだろう。人生のうちでそう長くはない時間だ。大切なことだよ」
 弛んでる。吐き捨てるように呟いたベジータに、博士はそう言って慈しむような笑顔を浮かべた。
「あの子は昔からパパっ子だったからねえ」
 寂しいだろうが、我慢してやらんとな。見当違いな事を言う博士に呆れ、口を開きかけたが、彼は結局それをつぐむ。自分の息子だろうと、野郎に纏わりつかれちゃ鬱陶しくてかなわん。だがわざわざ年寄りの夢を壊すこともあるまい。
「ちょっと羨ましいくらいだったよ。君は家に居ないことも多かったし、居ても重力室か自分の部屋に篭っていただろう。なのに、君の姿が見えると、あ、パパだ!って私の手をすり抜けて君の傍に駆け寄っていってしまって・・」
 特にスキンシップが始まる訳でもない。父の傍に駆け寄って行って、少し恥ずかしそうにえへへと笑い、おかえりなさい、と一言掛けるだけである。そして父が、ああ、と短く返事して、彼らの会話は終わる。
「でも、よっぽどパパが好きなんだねえ。そういう時のあの子の嬉しそうなこと。今度はママの所に走って行って、ママ、パパにお帰りなさいしたよ、って目を輝かせて報告するんだ」
 ママ、パパってやっぱりカッコイイね!ええ、パパは宇宙一強くてイイ男よ。なんたってこのあたしのダンナなんだから。妻の父の口から漏れる母子の会話の再現に、勝手なことを、と彼は軽く舌打ちする。そうして眉根を寄せ、そっぽを向いた彼が、怒っているのではないということを博士は知っている。ふっくらと笑いながら、博士は彼の背中に向かって続けた。
「君は、誰に対してもある種の敬意を抱かせないではおかない人なんだね」
 チェーンスモーカーの博士は、二本目に火を点け―今度はすんなりと火が出た―、静かに煙を吐き出す。ベジータは目に滲みる煙を少し不快に感じたが、博士の静かな声音を黙って聞いていた。
「私は、私の娘がこれほど誰かに敬意を払うのを見たことが無いよ。国王陛下のことでさえ、『犬のおじさん』なぞと呼んでちょっと軽んじているようなところのある子なんだが」
「敬意?」
 あれでか。ベジータは思わず博士を振り返る。彼は真面目な顔をして、そうだよ、と頷く。どの辺りを指して言ってるんだ、とベジータは一人で首を傾げ、鼻を鳴らして再び窓外に目を戻した。
「あの子には、直感で人を判断するようなところがある。身分だとか噂だとか、そういう先入観に左右されることが無いんだ。彼女がヤムチャ君をここに連れて来た時、彼がどんなだったか知っているかい?盗賊だったんだよ。荒野を行く人を脅して身ぐるみ剥いでしまうという・・・」
 博士はコーヒーを一口含み、テーブルに戻すと、指に挟んだ煙草を咥え、ゆっくりと吸い込んだ。肩からずり落ちそうになっている黒い毛玉を、その首筋を優しく掴んで担ぎ直す。そして、そっぽを向いたまま話を聞いているのかどうかも分からないベジータの後ろ姿に、煙を吐き出しながら独り言のようにして続ける。
「ただ、ハンサムには本当に弱かったがね・・私の妻もそれは御同様だが」
 遺伝かな。博士は一人でふむ、と頷く。
「ヤムチャ君をここに連れてきた一番の理由はまさにそれだ。だがそれだけではなかったと私は思っているよ。彼は本当に優しい、良い男だった。そう思わんかね」
「さあな。昔のことだ。憶えてない」
 眼中に無かったしな。それは正直なところだった。顔さえ、朧にしか浮かんでこない。気を読めば彼だと分かるだろうが、それがなければ判別できる自信がベジータにはなかった。そうかね。そう言って博士は、しかし、と呟く。
「彼は君のことを嫌いではなかったと思うよ。敬いの気持ちを含んで、君を好きでさえあったかも知れない。私の魅力的な娘を巡って、君たちの間には色々あったのかも知れんがね」
「無い」
 この男、どんな鞘当てを想像してたんだ。彼は素早く否定したが、博士はふむ、そうかそうか、と鷹揚に頷くだけである。彼の言葉を真面目に聞いていないのは明らかだった。ベジータは少しいらいらしながら思わず皮肉を漏らす。
「すまなかったな、俺があの男ではなくて」
 博士は娘よりやや灰色掛かった目を大きく開いて、ゆっくりと首を振る。
「いいや、私は君がここに居てくれて本当に良かったと思っているよ」
 普段、自分の心中を表すそうした言葉を滅多に口にしないこの男が、はっきりとした口調でそう言う様子は、ベジータの目に新鮮に映った。
「君と居て、娘は幸せそうだ」
 だがこの台詞を聞いた瞬間、彼はその場を立ち去りたい衝動に駆られた。最も苦手とする種類の言葉を聞いたような気がする。
「孫を二人も授かったしね」
 一人はまだ母親の腹の中だが。君の子だからね、必ず元気に生まれてくるに違いないさ。ベジータは今度こそソファから立ち上がろうとしたが、何かが彼を繋ぎとめて放さない。背中に嫌な汗をかき、全身を緊張させながら、動けずにいた。
「そういえば、君は最初この星を、地球を侵略しに来たんだったね」
 ヤムチャ君の比ではないな。短くなった煙草を、ポケットから出してテーブルの上に置いてあった携帯用の灰皿に、軽く押し付けて揉み消しながら、博士は小さく言った。苦手な所から話題が逸れて、ベジータは静かに息を吐き出す。
「ふふふ、君も昔は無茶苦茶だったなあ。300Gの重力室をねだられた時は、正直呆れたもんだよ」
 ねだったんじゃない、命令したんだ。彼はしかしそれを声に出すことはしなかった。背後で煙草の袋を探る気配がして、火を点けるライターの音が続く。
「だが、今はあれがあるのが当たり前になってる。君があそこに篭ってトレーニングするのもね。一見驚くようなことでも、慣れてしまうとそれは日常でしかない。人間の常識・非常識なんてその程度のものでしかないんだな」
 旨そうに煙を吐きながら、博士は呟いた。
「私の娘の直感は、しばしばそういう常識を飛び越えたところに私たちを引っ張って行くが、大抵の場合に於いて、間違っていない。科学者としても大切な素質だ」
 彼はコーヒーを一口啜り、しばらく黙っていたが、再び口を開く。
「あの子はもう若くはない。だが思い掛けず第二子に恵まれた。本当に、幸せなことだよ」
 あの子にとっても、私達にとっても。無論、君にとってもそうだろう。博士はそう言ってそっぽを向いたままの彼の首筋に目を遣り、そこにうっすらと昇った血の色を発見して、相好を崩した。かあさんがいつまでも君に夢中な訳がわかる気がするな。そして彼はこのいつまでも若いままの娘婿に小さな悪戯をする。
「君が変わらずあの子を愛してくれるお陰だ」
 耳まで朱が上り、全身に緊張が走るのが見て取れた。顔は見えないが、きっと目を剥いて言葉に詰まっているのだろう。この辺にしておいてやらんとな。笑いを噛み殺しながら、博士は少し冷めたコーヒーを飲み干した。煙草の袋を胸ポケットに仕舞い、空のカップを手にして立ち上がると、コーヒーサーバーの方へゆっくりと足を運ぶ。
「貴様は―」
 突然響いた声に、博士は振り返る。相変わらずの姿勢のまま、ベジータが何とか彼に一矢報いようとしていた。
「貴様は優秀な科学者だが、親馬鹿だ。貴様の娘は」
「下品で、やかましくて、野次馬で」
 台詞を奪われたベジータは絶句し、妻の父を顧みる。彼は黒い液体で満たされてゆく手の中のカップに目を落としたまま、ごく当たり前の口調で、続ける。
「そして心から君を愛し、敬っている」
「ど、どの―」
「どの辺を見てそう思うんだ、と言いたいのかい」
 博士はカップを手にのんびりと彼の方に身体を向ける。灰青色の、不思議に強い光を放つ澄んだ瞳が、ベジータを捉えた。
「彼女の息子を見ていて、そうは思わんかね」


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