不夜城(1)

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 足指の間にまで、香油を擦り込まれた。
 女官達の手が一撫でするたび、湯上りの肌が艶々と光を放つ。出来上がってゆく裸形を鏡の向うに眺め、なるほど王妃とは言ってもこんなものか、と彼女は口元を笑いの形に歪めた。
「いかがなされました」
 正面で熱心に乳房を撫で回していた年若い娘が、その表情に気付いて手を止め、おそるおそる質す。
「御不快でございましたか」
「よい」
 とだけ返し、仕事を進めるよう目で促した。他の女官達は、既に練絹を手に拭き上げに掛かっている。
「何事も、陛下の仰せのままに」
 二度三度と磨きを掛けながら、最古参の一人が彼女にそう含めた。新顔には必ず垂れる訓辞なのであろう。処女ではあるまいし、と彼女は内心鼻で嗤った。だがこの女も、心の内は同じかもしれない。
「この後宮には、お妃様方だけで六十有余名の方がお住まいです。無位の女人を加えるならば、その数は数百に達しまする。陛下がお気に召されますよう、何事にもお努めあそばされませ」
 湯と摩擦で薄く上気した肌を繁々と見下ろし、真新しい白い夜着を着せ掛けながら、それにしても素晴らしい、と女が溜息を混ぜて漏らした。
「お心掛け次第で、一の御方も夢ではございますまい。御身分的にも申し分ございませんし」
「三月前まで他人の妻でも?」
「・・お身体の御様子は、私共がお見届け申し上げておりまする。医師団の診療でも問題は」
「そうでしたな、抜かりなく隅々まで診られましたことよ」
「太子殿下を産みまいらされませ。さすれば立后への道も開きまする」
 またか、と彼女は黙って睫毛を伏せた。後宮の門を潜ってから今に至るひと月程の間に、『産』という言葉を何度耳にしたであろう。王と並び立つ后位にも、子供にも興味が湧かなかった。前夫が戦死してから、彼女は空虚なのだった。
 だからであろうか、夫である王弟の喪も明けぬうちに後宮から使者が訪れる、という不自然かつ非常識な事態に遭遇しても、それをさほど奇妙だとは感じなかった。相手は王である。どのみち、拒絶出来る話ではない。求婚は受けざるを得なかったが、正直どうでもよかった。夫でないのなら誰であろうと同じだ、と思った。供を連れてゆく事は許されていたが、敢えて宮門の前に置いてきた。一度潜れば、滅多な事ではこの門の外には出られない。贄は一人で良い。
 独り居室で待つ間、彼女は初めて新郎に会った日の事を想い起こした。
 まだ許婚者であった前夫と共に、宮殿の西門の陰から、ちょうどその前を通り掛った彼女の前に飛び出してきたのだ。何かとんでもない事を仕出かしたのであるらしい、少年二人は禁軍(王の近衛軍)の兵士たちに―全身白ずくめの派手な姿なのですぐ分かる―追い回されている真っ最中だった。何故か彼女も巻き添えになって一緒に逃げる羽目になり、宮の東端の繁みの中に隠れ、どうにか兵をやりすごした。
『一番上の兄上だよ。王太子であらせられる』
 と彼女に紹介する前夫の、なんと誇らしげであったことか。昔から、兄は彼の自慢だった。夫婦になってからも、口を開けば「兄上はこう仰った」「王陛下はこのように振舞われた」とうるさく、少々妬けたほどだった。
 兄王子はちらりと目をくれ、一つ頷いてみせただけで、それきり彼女に関心を示そうとはしなかった。その頃には既に、側妾を幾人も侍らせる早熟な少年であったというから、少女と呼ぶのも痛々しいような子供が興味の対象外であったとしても、それは無理もない話だった。弟王子は彼とそれほど歳が離れているという訳でもないのに、隣に並ぶとまるで幼く見えたものだ。
 青年となった彼が起居した太子宮を、人は 『不夜城』 と呼んだ。
 きらぎらと灯が絶えず、美しい女達が着飾って夜明けまでさんざめいている。父王のハレムよりも華やかだった、という話もあった。ある者は眉を寄せて声をひそめ、しかし多くの者は目を輝かせて喝采を贈る。戦うことの他に大した娯楽を持たなかったサイヤ人にとって、この王子の言動は一々センセーショナルで艶やかで、スキャンダラスだった。彼の周囲は常にある種の妬みと憧れ、好奇心で満ちており、民衆は良きにつけ悪しきにつけ自分達を沸かせる存在を愛してやまず、その登極は熱狂的に歓迎された。
 間近で顔突き合わせたのは、その一度きりである。
 彼女の持つ高い軍才は長ずるにつれて明らかになってゆき、王弟の妻となってのち軍参謀の一人として頭角を現すようになったのであるが、それでも、呼ばれもせぬのに馴れなれしく近付ける身分ではなかった。王とそれ以外の王族とでは、血縁やその姻族であってもそれほど分際に隔たりがある。
『大層な出世である』
 と父は彼女の再婚を喜んだ。母なら何と言ったろうか、と考えた。彼女の乳房が膨らみ始めた頃亡くなったが、これほど強くて美しい女が世の中にあろうか、とずっと憧れだった。もっと母似で生まれたかった、と何度も己を憾(うら)んだものだ。
 両親の間には、常に冷ややかな空気が漂っていた。父に言わせるなら、母は気位が高すぎるのであるらしい。だが彼女は少女の頃、これほどの女に一体何の不満があるのだろう、と父を軽蔑していた。その完璧こそが夫たる男を遠ざけたのだ、とは気付かなかった。前夫は―兄に倣おうとするあまりか何度か側女を置いたりもしたが―彼女を妻として大切に満たした。そうなって初めて彼女は母の、そして父の、悲哀を知った。



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