おそるるべきはかの女 (2)

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 翌朝、男の姿は消えていた。三ヶ月は戻らないわね。彼女は持ち出された食料カプセルの数を数えながら呟いた。
「おはよう、ブルマさん」
 背後で甘ったるい声がした。振向くと、庭から摘んできたのだろう、両手一杯の花束の向こうで彼女の母親が微笑んでいる。おはよう。つられるように笑いながら彼女も答えた。
「ベジータちゃん、またお出掛けなの?」
 ママ寂しいわあ。テーブルの上に手の中の花を降ろしながら甘えたように口を尖らせる。いくつになっても、こういう仕草が不自然ではないひとだ。彼女は改めて感心する。
「まあね。三ヶ月位は戻らないと思うわよ」
 まあ、そんなに?母親の悲しそうな声を聞きながら、冷蔵庫から水のボトルを取り出し、グラスに注ぐ。レモンのスライスを浮かべたそれを手にダイニングの椅子に腰掛けながら、視線を感じて彼女は母親の方に目を遣る。
「どしたの」
「ブルマさん、赤ちゃんが出来たの?」
 彼女は吹き出し、むせ返った。目を白黒させながら、首を傾げている母親に抗議する。
「なによそれ!一体何がどうしてそんな話になるのよ!」
「だってママ、そんな気がしたんですもの」
 何言ってるのよ、まったくママってば。ぶつぶつ言いながら、彼女は駄目になってしまった飲み物を台所に流し、こぼした水を拭き取ろうとペーパーを手にして、はたと動きを止めた。
 今気がついた。遅れている。それに昨夜の男の、あの何とも形容しがたい表情。突然出て行った、あの背中。彼の持つ特殊な感覚は、彼女自身も気付いていなかったことを捕えたかも知れなかった。
「ブルマさん?」
 彼女の母親が、固まってしまった娘を不思議そうに覗き込む。何でもないわ。ちょっとね。答えて、テーブルの上を拭く。
 こりゃ、ひょっとするわね。検査薬買ってこなきゃ。直で病院行った方が早いかもだけど。
「ちょっと出掛けてくるわね、用を思い出したの」
 何かついでがあれば済ませてくるけど。丸めたペーパーをダストボックスに放りながら、彼女は母親に声を掛けた。緩やかな弧を描いて、それは箱に吸い込まれる。ナイスシュー。彼女は小さくガッツポーズを作った。
「そうお?それじゃ、ちょうど紅茶が切れちゃいそうだったから、いつものお店で買ってきてくださる?ママあれじゃなきゃダメなのよ」
 助かるわあ、うっかりしてたの。それじゃ午後のお茶には間に合うわね。嬉しそうに言う母親に、分かったわと返して彼女はダイニングを出る。あら、朝食はどうなさるの。背中に掛かる声に、彼女は片手を上げて必要無い意を告げる。随分お急ぎなのねえ。母親の声が廊下に響いた。
 変だわ、あたし何をうきうきしてんのかしら。普通こういう場合―普通―どうなのかしら。あたしあんまり女の友達っていないし、よく分かんないわ。映画なんかじゃ、こう口元を押さえて―あれは悪阻のせいか。それで、深刻そうに目を見開いて―。ふふ、変な感じ。嬉しいような―待って、まだハッキリしたわけじゃないものね。
 着替えて、玄関先でバイクのカプセルを取り出しかけて、思い留まった。こっちにしとこ。彼女はエアカーのカプセルを放り投げる。ひょっとするから、大事にしなきゃね。運転席に乗り込みながら、彼女はにんまりした。あの顔。ホント正直な男ねえ。でもあたしもママに言われるまで分かんないなんて、ちょっとどうかと思うわね。
 ―そういやママ、何でわかったの?
 今更ながら、あの母の笑顔がちょっと怖くなった。彼女は、男がいつだったか母について漏らした『あの女は苦手だ』という言葉を思い出す。その時は、彼に邪険に扱われようとどこ吹く風と受け流してしまう彼女に、どう接して良いのか分からない、という意味だろうと思っていたが、それだけではないのかもしれない。
 わかるわ、あんたの気持ち。時々ちょっと、怖いわよね。
 ドラッグストアの前に横付けして、車をカプセルに戻す。ふと、視線を感じた。辺りを見回すと、往来を行く数人の男達が彼女の方を見ていた。ちがう。彼女は空を見上げた。それらしき影は見えない。勘違いかしらね。それ以上気にすることなく、店に入った。

 男はその猛禽類並の目で、上空から女を捉えていた。その小さな気を、嫌になるほど感じ取ってしまうのだ。気配を感じれば、そっちを見てしまう。それだけのことだ。彼は自分に言い訳しながら彼女の姿を目で追っていた。女が空を見上げるような仕草をする。見える筈が無いと分かっていても動揺を抑えることが出来ない自分に、女が何の用で薬局に入ろうとしているのかが解ってしまう自分に、彼は忌々しそうに舌打ちした。
 俺はこんなところで何をしてるんだ。何故さっさとトレーニングに出掛けない。
「俺には関係ない。知ったことか」
 彼は昨夜から何度も心の中で繰返した言葉を口にし、背を向けた。戻る頃には、答えが出ているだろう。彼は一瞬動きを止める。
 答え?何のだ。
 自分でもよく分からない。少し引っ掛かったが、考えるのを止め、その場を離れるために彼は静かに上昇を始めた。

2005.4.30



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