抱かれていると、錯覚を起こしそうになったものだ。
愛なのかと。
そうではない、と知ってはいた。皮膚の触れ合う快さは、しばしばそれに似た感覚を呼ぶ。あれはそういったものだったのかもしれない、とも思う。彼等は互いに―それが彼女に伝わる程度に彼は正直だった―、肉体的には実に申し分のない相手であった。
名前なんか付けられないことのほうが多いんだわ。
年を重ねるにつれ、それが分かるようになったというのではない。あの男と過ごした数年の間に、彼女は自分が一気に歳をとったのだと思っている。老いたという事ではない。己の深淵を覗いた、とでも言おうか。そうして、それまでそれが自分だと思ってきたものは、その表層に過ぎなかったのだと知った。
何と呼ぶべきものなのか。
互いが互いに溶けて流れ込むような、自分と相手の境を見失いそうな、あの無言の夜たちを。きっと一生、言葉はみつからない。
早過ぎたのだ。
だが長く共に過ごして、それでどうなったというのだろう。それに、科学者達が追い求めてきた夢を―時間旅行を可能にする発明を―実現した自分が言うのも何だが、もしも、などということを彼女は本来考えない人間だった。
名前を得るには、少なくとも早過ぎた。
それだけのことだ。彼女は半分割れて機能を果たさなくなっている窓に、短くなった煙草を押し付けた。
「ただいま」
声を掛けたが、返事は無かった。地下の研究室にでもいるのだろう。荷物をダイニングに運び入れ、母を捜そうとして、やめた。
今日からは、そんな必要はないのだ。
癖になっているんだな。彼は、外出から戻ったら必ず母に顔を見せねばならなかった昨日までの日々を思い、ちょっと肩をすくめる。それから使わない食品を冷蔵庫などに仕舞うと、夕食の準備を始めた。
今晩のメニューは、鶏肉とブロッコリーを炒めたものをアンチョビとガーリックで味付けしたものに、ツナとトマトのパスタ。黒オリーブが手に入ったので、それも使う。当番の日ではなかったが、今日は母に手料理を振舞いたい気分だった。
母さん、やっぱり料理は得意じゃなかったな。
過去での短い滞在の間に、一度だけ若い母の手料理を口にする機会があった。彼が未来に戻る前夜、晩餐の席でのことだ。一口含み、絶句した。だが彼女にしては上出来の部類だったのだろう、おいしい?と覗き込んでくる愛らしい瞳に、彼は首を縦に振らざるを得なかった。
美人だったんだな。母さんて。
今は違う、ということではない。その事実を客観的に実感した、という意味だ。
それだな、きっと。
彼は、あの父が彼女を受け入れた理由の筆頭にそれが挙げられると確信していた。単純なことだ。鶏肉を平らにさばき、包丁の先で皮に細かく切れ目を入れながら、難しい父にも実に簡単なところがあると感じ、口の端に笑みを浮かべる。
無理ないけどな。
自分の母だと分かっていても、妙な気分になった。彼女はとても魅力的だったのだ。軍の中で荒くれに囲まれて日々を送ってきた男が、逆らえようはずもない。あの柔らかさに。健康的な明るい美貌に。おおらかな優しさに。
爆発に巻き込まれた彼女と赤ん坊の彼を、父は助けようとはしなかった。そのことについて彼が彼女に尋ねたとき、彼女は最初きょとんとして、こう言ったものだ。
『なに、あれがどうかしたの』
これがこのひとなのだ、とそのとき理解した。あるがままの父を、あるがまま受け入れている。
『愛していますか』
そう訊ねる彼の真剣な様に、彼女は目を丸くして、それからふわりと笑い、若いわね、と優しい声で呟いた。
「母さん」
息子の声に振り返った。夕陽に照らされ、彼女と同じ色の髪が赤く輝いている。
「どうしたの、こんなところで。研究室にいないから探しましたよ」
「気で分かるんじゃないの」
「前に話した事あるでしょう、おおまかな場所しか分からないんですよ。一般の人の場合」
そろそろ夕飯にしましょう。準備出来ましたよ。彼のその言葉に、彼女は少し驚く。
「やだ、もうそんな時間なの」
「いやだなあ、母さんたら」
もう夕方じゃないですか、毎日のことでしょう。だが彼女をはじめ、人々のほとんどが、昨日まで一日の大半を地下に潜って暮らしていたのだということに思い至ったのだろう、彼は唇に乗せかかっていた笑いを、さっと引っ込めた。
「ねえ、トランクス」
黙ってしまった息子に、彼女はゆったりと声を掛ける。トランクスが目を上げ、少し首をかしげた。
似てきた。
醸し出す空気はまるで違っている。だが容貌に、仕草に、その面影を色濃く湛えていた。少し首を傾けた表情に、遠い記憶が重なる。
「―何でもないわ」
窓の外に目を戻す。午後の、目にしみるような眩しさは失せ、何もかもが赤く染まっている。彼女は、自分が随分長い間一つのことを考えていたらしいと覚った。
別れの晩餐の席に、父は姿を現さなかった。主が不在のその席にちらちら目を遣る彼を見て、若い母は苦笑する。
『ムリよ、あいつには』
あんたが発つまでにはきっと姿を見せるわよ。しかしその言葉すら当てには出来ないだろうと彼には思えた。
だが、夜半に父の気を感じた。
ベッドでうとうとしていた彼は、それに気付いて飛び起きた。半時間ほどもそのまま気を探ってじっとしていたが、やがてベッドから降り、自身の気を殺しながら―そうしなければ彼の接近を感じて父が姿を消してしまうかもしれない―、屋内にいるであろう父の姿を探した。
最後に一目、会いたいと思った。可能なら言葉を交わしたいが、拒絶されても、それはそれで構わない。
気を求めて階下に至る。リビングから、薄く明りが漏れていた。音は無い。彼は足音を忍ばせて近付き、そっと内部を覗いた。
父がソファに身を横たえていた。腰掛けた母のまろやかな膝を枕に、眠っているのだろうか、アンダースーツの胸を規則正しく上下させている。こころもちむこうを向いていて、その表情は見えなかった。
俯いた母の顔も髪に隠れ、その色は窺えない。白い手が、膝の上の黒髪をゆっくりと撫でている。繰り返し、くりかえし。とても、大切そうに。
トランクスは、静かにその場を離れた。あてがわれた自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。
遠く窓外に、光の海が広がっていた。彼の世界では失われてしまったあの海の中では、恐怖から開放された人々が夜を徹して命を謳歌しているのだろう。
色に溢れたそれが、滲んだ。
大きなものを失った父の無念と空虚が、胸に迫る。父に開いた風穴に黙って寄り添う母の姿が、瞼の裏からゆっくりと沈んでゆく。
父さん。
夜着の膝に落ちる雫が、ぱた、と小さな音を立てた。