出掛ける前から蹴躓いていたのだ、と思う。
「今年の流行色だ」とマヌカンに勧められたドレスは、ロゼワインにチョコレートを溶かし込んだような色で、店のスポットライトの下ではスカートの畝などに白味掛かった艶があってなかなか良いと思ったのに、いざ出掛けようと昼の光の下で身に着けてみると、使い物にならない事が判明した。バーガンディを帯び、彼女の色彩が持つ透明感を台無しにしてしまうのである。こうなってしまうと、全体を薄く覆う黒のチュールもありがちで野暮ったく感じられ、気分が高揚しなかった。
らしくもない選び方をしたものだ、と彼女は自嘲する。だいたいあの趣味の悪いマヌカンを寄せ付けたというだけでも、三日前の自分が腹立たしい。せめて複数選んでおけば良かったが、今夜の為に購入した既製品はこの一着だけだった。特に気に入ったものがみつからなかったせいもあるが、青いチューブドレスを一着オーダーしていたので、既製品の方は"第二候補"と油断したのだ。
だがデザインから布地選びまで彼女が拘ったその一着は、結局間に合わなかった。
彼女が指定した布地があまりに希少なもので調達に手間取った、というのが仕立屋の言い訳である。彼女ら母娘が日頃使う仕立屋は、仕事は確実だが期日の指定が出来ない。なので、近頃評判だというその店に依頼したのであるが、考えてみればその時点からケチがついていたと言える。
待ち合わせの時間が迫っていた。寝過ごしたのだ。あの店はもう絶対に使わない、と心に誓いながらイライラとドレッサルームを掻き回したが、どれもこれも近々袖を通したものばかりで、どうしても着る気になれない。仕方がないので 「たまにはこういう冒険もいい」 と自分に言い聞かせて件のドレスに挑戦したのだが、今度は化粧に失敗した。ルージュの色選びを間違えたのである。地肌に近い色を選んでおけば間違いなかったはずだ。だが服の色に引っ張られて茶掛かった赤を選んでしまった。そろそろ陽が沈もうという頃、バックミラーを見てその血が凝ったようなどす黒さに気付き、ぎょっとした。だが替えの色を買う時間はもうなかった。
既に遅刻だったがそれなりに急いだ。今日は本当に冴えない、とムカムカしながらも、さらに遅刻しているらしい彼を待った。だが何と、ヤムチャは現れなかった。
(何やってんのかしら、あたし)
一時間ほども待ち呆けを食らわされた辺りで、彼女は我に返ってしまった。
気に入らないドレスを着て、決まらないメイクで、私はどうしてこんなところで晒し者になっているのだろう。何のために、電話にも出ない男を待っているのだろう。
怒りよりも先に、自分に呆れた。このあたしが、と少し笑えた。せめてもの救いだった。
誰もいなくてよかった、と帰宅してまず思った。今は誰とも会いたくない。玄関を潜るとすぐにハイヒールを脱ぎ、両手にぶら下げて廊下を歩いた。明るい気分ではなかったが、開放感と程良く冷たい床が足裏に爽快だった。
今日はプロポーズされるかもしれない。
と思っていた。だからこんな風に失敗続きだというのは、何かの暗示だったのかもしれない、とふと考えたが―
(いえ、違うわ)
何かの、ではなくて、それが自分の心なのだろう。つまるところ、どう応じるべきかについて彼女には迷いがあった。そうでなければ、こんなに何もかもが杜撰(ずさん)であるはずがないのだ。実際求婚を受けてからでも遅くはない、と真剣に考える事すら先延ばしにした。
昔は、ただもう大好きだったのに。
けれど、どうしてこんな風になってしまったんだろう、と考えるほどには彼女は若くなかった。情熱は冷め果て、傷付けあうことにすら倦み、あとは多分惰性だ。この間延びした倦怠を打ち破る方法と言えば一つだったが、彼らは踏み出すことにためらい続け、情愛を育てることにも頓挫し続けた。
今日が最後の機会だった、という確信が彼女にはある。彼を待つ一時間のあいだに、自分の中で何かが変質してして行くのを感じた。熱を加えられた卵がもう二度と孵らないように、何かが死んでゆくのを。
だが彼は、これ以上望むべくもない素晴らしい男なのだった。友人としては。彼と関わる多くの女達も、口を揃えてそう言うだろう。
もう、よそう。
ベッドを共にしなければ良い関係でいられる。きっとそうだ。だったらもう、やめよう。男なら代替が利く。傷ならそのうち癒える。だが彼という友人は、二人といない。夏に逝った友との思い出を語り合える数少ない人間である、という意味でも。
けれどそう決心した途端、彼と過ごした十六年という月日が頭の中を駆け巡り、彼女をひととき逡巡させるのだった。初めてキスした日の目も眩むような幸福が、今の彼女を涙ぐませる。彼はなんと優しく、温かく、力強かったことか。今も昔も。そしてきっと、誰に対しても。
駄目よ。
振り切るように顔を上げた。その視線の先に、ベジータがいた。
リビングの床に敷いたラグの上で、男は十の字になっていた。
と見えたのは部屋が暗かったせいなのだろう。目を凝らすと、薄闇の中で白いラグに溶け込んでいるのは、彼女が夕方着て出るつもりで羽織ったものの、もう少し薄手のものにしようと脱ぎ捨てて行った毛皮の長外套だった。艶々と長い毛足の上で、男はかなり深く眠っているようで、目を閉じたまま長いリズムで呼吸している。昨日母が作ったビュッシュ・ド・ノエルをここで食べたのであるらしい、床の上には銀色のフォークと(しかもパスタサイズだ)、霜降りグレイのオーバルプレートが放り出してあった。
(あきれた・・)
大皿の上には、ココアクリームの残骸らしきものがこびりついているだけだ。彼女の胴ほどの長さがあるあの巨大な薪を、この男は一人で全部平らげてしまったらしい。馬鹿なんじゃないの、家族全員分だってのがわからないわけ、と眉を逆立てかけたが、考えてみればあればあるだけ食うのがこの男の常なのだから、彼に言わせるならきっと、馬鹿なのは主張と確保を怠った彼らの方だという事になるのだろう。
男は磔刑にかけられたような姿で、一見すると死んでいるように静かだった。この建物の中は年中同じ温度に保たれていて、部屋の中は寒くも暑くもない。だがその景色のうそ寒さに、ぶるっと身体が震えた。この男も孵らないまま冷たくなってゆく卵なのかもしれない、と彼女は思った。
(だったらどう、いっそ一緒に腐ってみようか)
だが、この男は腐乱するまで生きてはいないのかもしれない、という妙に予感めいた思いが頭の隅を掠め、漠然とした不安に駆り立てられる。
「風邪ひくわよ」
少々深刻になりかけたが、この男に腐臭は似合わないと感じただけだ、とすぐに考えるのをやめた。考えるのが怖かった。寝るんなら部屋で寝れば、と声を掛けたが、男が目を覚ます気配は無い。傍らにしゃがみ込むと、果物の醗酵したような香りが漂った。ソファの上にシャンパンの空瓶が一本転がっている。おそらくは母が、彼の為に用意して行ったものなのだろう。
「・・こんなの独りで飲んで」
寂しいやつ、と呟いた時、不意に男の目がうっすらと開いた。窓からの雪明りに白く映える肌の上で、若月のような黒い筋がゆっくりと肥えてゆく。こころもち幼く見えたその表情が常の凶悪さを取り戻すのを観察していて、彼の容貌が意外なほど端正である事に気付き、彼女は少し狼狽した。
「・・・何だ、貴様」
低く呻る男を見下ろしながら、相変わらず綺麗な目だ、とひっそり溜息を落とす。
「こんなとこに転がってられちゃ迷惑だ、って言ったの」
「俺の勝手だ」
と眠そうな声で横柄に返すと、男はその澄んだ瞳に再び蓋を被せた。
最初この目が恐かった、と彼女は懐かしく想い起こした。この男は、彼女の前で敵の土手っ腹に拳を捻じ込み、ぶち抜き、残忍なやり方で粉砕して見せたのだ。あの頃、この目は燃えていた。恐ろしかったが、そのきらぎらしさから視線を逸らせなかった。あの激しい、黒い炎が懐かしかった。
もう、戻ることはないのだろうか。
怒るかもしれないな、と思いながら、彼女はその瞼に指を伸ばした。触れると、ぴくりと動いた。だが既に眠りに戻ろうとしているのか、男はそれ以上アクションを起こさない。
「生き返ってよ」
と呟くと、誰が死んでるんだと掠れた声で返し、男はその手で睫毛をなぞる彼女の指を捕らえた。痛いと小さく声を上げると、男はすぐに力を緩めたが、彼女を解放しようとはしなかった。
「あんたが敷いてるの、あたしのコートなんだけど」
彼がそんなふうにしっかりと(という言い方も変だが)触れてきたのは初めてだった。存外品良く湿気を帯びた、その滑らかで温かな肌触りに、彼女はどぎまぎしながら話題を変える。
「・・だろうな」
「あら、知ってたわけ」
「匂いがするからな」
語尾は、ほとんど聞き取れなかった。酔いの呼ぶ睡魔が相当強烈であるらしい、男は小さく欠伸を漏らして二、三度目を瞬かせた後、ごろりと姿勢を変えて丸くなる。華奢な手を床に組み伏せて握りしめ、彼女の匂いに抱かれたまま、再び眠りに落ちてゆく。
「・・涎なんか垂らしたら許さないから」
目を逸らせないのは、今も変わらなかった。何故だかは知らない。ただそこには、彼女が逆らえない何かがあった。
けれど洗い晒しになった男の無垢をみつめているのは、正直辛いのだった。かつて彼の中に吹き荒れた情念の嵐。あの夏の日、永久に止んだ。雨上がりの大地には、大事な何かを洗い流された男がそれでも背筋を伸ばしたまま、独り立ち尽くしていた。
「でも、見ててあげる」
きっと当分ヒマだもの、付き合ってやるわよ。
世界は平和で退屈で、今宵は殊更馬鹿騒ぎだ。今頃ヤムチャも、あの喧騒のどこかで別離を思っているのかもしれない。あるいは、帰ったらどう謝ろうか、と。
動いた拍子、尖った鼻先が膝小僧の横っ面をかすめる。この男もこうしていれば可愛いものだ、と彼女はふっくら笑った。
「チャンスよ、あんた」
と男の耳元で囁いたが、恋を失った美女を前に、彼は既に寝息を立て始めている。もったいないヤツだわね、とちょっと吹き出し、男の広い額に聖夜のキスを落とした。彼女をくすませていたその色が移り、小さなリボンのように彼の横顔を飾る。思ってもみなかったわ、プレゼントありがとう、と彼女は声を立てて笑った。
2007.12.16