夜のチョコレート

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『ホントにおいしいから、騙されたと思って食べてみて』

 カカオフリークの友人にそう言って手渡されたタブレットチョコレートは馬鹿馬鹿しく苦くて、ブルマはそれをベッドサイドのテーブルの上に放り出した。これならアンタだってファンになるわよ。女友達は自信たっぷりに頷いていたけれど―
 確かに、度々口にする方ではないのだと思う。そんな様子を目にしていて、彼女が甘いものを嫌いなのだと思い込んだらしい、名のある老舗で手に入れたこの真っ黒なチョコレートを、彼女への『心を込めた旅土産』に選んだのだと言う。
 苦けりゃいいってもんじゃないのよね、悪いけどさ。
 彼女は人の好さそうな丸顔を思い浮かべながら小さく舌を出し、テレビのリモコンを手に取ってスイッチに触れた。エキゾチックな顔立ちのブルネットのキャスターが、その日最後のニュースを伝えている。美人だけど、化粧が濃いわ。完璧に作り上げた肌と、瞬きの度に風が来そうな濃い睫毛に文句をつけ、彼女は鏡台の上に置いた赤いカップを手に取って一口含む。少しぬるくなったコーヒーが、口内に残るシガシガとした苦味を洗い流した。
「お風呂入らなきゃ」
 そう呟いてカップをサイドテーブルに置き、ベッドの上に身体を投げ出した。マットレスが静かに、しかし少々強張ったまま彼女を受け止める。最近スプリングがすぐ駄目になるので、特別に強化したものに取り替えたばかりだ。
 眩しい。
 疲労した眼を直撃するダウンライトを消そうと、ベッドサイドのコントロールパネルに腕を伸ばした。その動きに、ラボに籠って一日根を詰めた身体が、じんわりと溶ける。足を振り、靴を床に放り出した。手足を伸ばして思い切り背筋を反らせ、欠伸して目を開くと、長々と心地良さ気に伸びた女が窓ガラスに映っている。
 猫みたい。
 ベッドの上で様々に向きを変えながら、括れた腰や、尻から膝のなだらかな尾根を眺め、彼女は一人、くつくつと満足そうに喉を鳴らした。


 熱さと重みに、目が覚めた。いつ戻ったものか、トレーニングに出たきり暫く姿を見せなかったベジータが、彼女の身体にのし掛かっている。
「あんた・・」
 逆立った黒髪の、ちくちくした刺激にくふんと鼻を鳴らすと、男が気付いて顔を上げた。テレビの画面は既に砂嵐である。ノイズを含んだ光が、彼の左半身を浮き上がらせる。黒い瞳の中には、彼と同様波立つ光に晒された自分が映っていた。それは昼間の鮮やかさこそ失っているのだろうが、モノクロームな色合や、暗い部屋の中で細やかに揺れる光源は、彼女の肌の艶や瞳の輝きを一層際立たせているに違いない。
「相変わらず、いきなりだわね」
 黙ったまま彼女を見下ろしている男を、わざわざ睨んでみせる。本当は笑い出したい気分だったのだが―
「挨拶が必要か?」
 男は片方の眉を上げ、微かに口元を緩める。
「そうね、久しぶりだもの。一言くらい」
「こんばんは、致しに参りましたのでどうぞよろしく」
「ばかね」
 耐え切れず、吹き出した。身体を震わせて笑う彼女の唇に、彼がゆったりとくちづける。
「チョコレート、食べたの?」
 礼儀知らずなのだか弁えているのだか、よく解らない男だ。丁寧で香ばしい挨拶を受け、彼女は離れてゆく彼の下唇を咥えて名残を惜しむように滑らせた。
「旨いか」
 低く囁くような反問が腹の中をくすぐる。自分の瞳がしっとりと潤度を高めるのを感じながら、彼女は素直に頷いていた。その昔、媚薬として使われた事もあったというが、案外侮れないのかもしれない。
 彼は上体を起こし、サイドテーブルに腕を伸ばして一かけら折った。ぱきり。小気味良い音がテレビの雑音を縫って彼女の耳に届く。逞しい胸筋が僅かに蠢き、彼らの薄い衣服を挟んで彼女の乳房の頂をかすめた。ちらちらと忙しく揺れる光が、男の額から鼻先の稜線をくっきりと浮かび上がらせ、切れの長い目元を彫り込んだような鋭い隈取りで飾る。
 負けそう。
 形の良い唇から漏れた微かな息にさえ、我を奪われそうだ。彼女は思わず目を伏せたが、唇に押し当てられた冷たい感触と鼻腔を走るカカオの濃厚な香りに、再び瞼を上げた。
「食え」
 男が彼女の口にチョコレートを差し込み、命令する。表情は変わらないが、彼女には彼が笑っているのだとわかった。上下の歯を開くと、小さな欠片が滑り込んでくる。密度が高く硬いそれは、それでも彼女の体温にほぐれ、口一杯に苦味が広がった。
「にが・・」
 眉を顰めた彼女の口中に、男の舌が滑り込んだ。それは彼女の舌との間にある欠片を溶かし、強弱をつけてゆっくりと粘膜に擦り込む。
 どうして。
 たった今 『やはり苦いばかりだ』 と思ったはずなのに、彼の一部と共に味わうそれは芳醇で、果実のような瑞々しい風味さえ感じられる。
「旨いだろう」
「うん・・」
 目をぱちくりさせる彼女を見下ろし、男は今度こそ相好を崩した。決して温かみのある表情ではない。だが、だからこそなのか、それは彼女の奥深くを収縮させ、つまみ上げる。
「ベジータ」
 彼の名を呼び、彼女は陥落する。自分は今、さぞ美味そうな顔をしているに違いない。好色そうに細められた男の目から逃れるように、窓に視線を逸らした。そこには明るい砂嵐を背景に、獣が、彼の獲物に近付いて貪らんとしているシルエットが鮮明に映し出されている。
 男が窓の様子に気付き、ブラインドを下ろそうとテーブルのパネルに手を伸ばした。細い指で、彼女はそれを遮る。
「離せ」
「誰に見られるっていうの」
「いいから、離せ」
「いやよ」
「露出狂め」
「なんとでも」
 彼が少しでも本気ならば、遮ったところで意味がない。小指の先で彼女をぶら下げる事だって、朝飯前にやってのけよう男である。戯れているのだ。彼らはそうして、ひとしきり押し問答を楽しむ。この厳かなる儀式を済ませ、互いを味わう為に、互いの身体に落ちてゆく。
 彼女は、知っている。
 彼らは互いに獣で、互いの獲物だ。黒く苦い媚薬の魔法は、きっと彼らを飼い慣らすだろう。


『で、どうだった?ヴェイスのタブレット』
『素敵だったわ』
『でしょう』
『夜のチョコレートね』
『?』
『ふふふ』
『まあ、あなたも分かってきたって事よね!』

2006.4.16



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