特設ページ跡地TOP

「それで終わり?」
 アイスブルーの視線が、地に膝をつく彼に注がれた。もう既にはっきりとは見えなくなった目で、それでもそのすらりとした姿を捉え、彼はかろうじて立ち上がる。
「飽きちゃったよ、もう」
 黄金を風に靡かせ、心底退屈そうに言い、それが溜息をついた。
「そいつは気が合うな」
 雲が切れ始めたのだろう、彼に一番しっくりと馴染むその色が、視界の上部におぼろに映る。
「俺も餓鬼の相手をするのには飽きあきしてるんだ」
 それは美しい笑い声を立てた。
「あんた、やっぱり面白いね」
 不気味なほど端正な顔に歪みの無い微笑を浮かべたまま、それがゆっくりと近付いてきた。彼は攻撃に備えて構えを作ろうとしたが、身体に力を入れた途端に鳩尾から背骨を伝って全身に鋭い痛みが走り、再び地に片膝をつく。
「ほうら、ボロボロの癖に無理するから」
 少女を象ったそれが、彼と額を突き合せんばかり近くにしゃがみ込み、苦痛に歪む彼の顔を覗き込む。
「馬鹿なサルだね。大人しく隠れてりゃ、もっと長生き出来たのにさ」
 それは小さな唇の両端を引き上げ、冷たい色の青い瞳を弓形に曲げて、くす、と笑った。
「・・口の回る餓鬼だな」
 彼はふんと鼻を鳴らして片頬を持ち上げた。途端、それが細い眉を微かにしかめ、彼の黒髪をむずと掴んで仰け反(のけぞ)らせる。
「いちいちカンに障る男だね」
 不機嫌な響きに、彼は低く笑う。
「どっちがだ?口か?それともガキの方か―」
 言い終わらないうちに、腹に拳が食い込んだ。衝撃に、景色がぐらりと揺れ、再びぼやける。
「黙りな」
 永遠に少女のままのそれが苛立たしげに呟いた。両手で腹を押さえ、咳き込むことすら出来ないでいる彼の襟首を掴み、もう一度仰け反らせる。彼は詰まらせた息を押し出し、間傍にあるそれの顔を睨んだ。真っ白な肌は、彼を覗き込む自らの陰の内でくすんでいるが、彼を見下ろす氷の瞳は異様に冴え渡り、輝いて見える。小さな薄い唇は、引き結ばれて強張っていた。血の薄色を乗せた完璧な形の粘膜。それが不意に近付き、彼の唇に押し付けられる。
「――」
 人造人間の温み(ぬるみ)。奇妙な気がした。が、それだけだった。彼は、触れることなどせずとも、彼の奥深くから甘く凶暴な獣をたやすく呼び起こすことの出来る女を脳裏に浮かべ、あれはやはり普通ではなかったと思い返した。
 丸く小さな唇は、はじめから彼を誘う(いざなう)ように象られていたのだとしか思えなかった。触れたときの、溶けるようなやわらかさ。疼きを伴うもどかしさ。深く重ねて内部のぬめらかな熱を感じると、鼻の奥から後頭部がじんと痺れ、加速して行く自分を止めることが出来なくなった。忌々しい女。あれはしばしば、所構わず、彼から彼自身の支配を奪った。
 突然、笑いがこみあげた。
 それが唇を離し、音のしそうに長い睫毛を二度上下させる。身体を揺らし、喉を鳴らして笑う彼を訝しそうに眺めた。
 支配だと?
 彼は生まれてこのかた、ただの一度も自由であったことなど無いのだった。自身を支えてきた誇りすら、元々は彼を括る血統に由来するものではないか。最期の最後というこの瞬間までそのことを考えてもみなかった自分が、ひどく滑稽だった。漏れ出る声を、抑えることは出来なかった。
「遂に頭に来たの?」
 僅かに眉尻を下げ、白い頬に哀れみをさえ浮かべてそれが囁いた。彼は目を開く。未だ止まぬ低い笑いに、それがぴくりと眉根を寄せたのが薄ぼんやりと視界に映った。
「かわいそうにな」
「―何だって?」
「貴様は木偶(でく)だ。永久にな」
 挑発に、澄んだ瞳がすっと細められる。何かが光り、耳の奥に軋むような音が響いた。呼吸すると、左胸がびくびくと激しく痙攣する。経験のある状況に、彼は心臓を打ち抜かれたのだと知った。襟元の縛めが解かれ地に沈みゆく彼の視界を、穢れの無い白い手が横切り、眩しく白濁した空気の中に消えて行く。
「やっと済んだのか」
 黒髪の少年の姿をした一体が、立ち上がって素直な黄金をかきあげるそれに近付き、声を掛けた。
「待ちくたびれたぞ、まったく」
「何言ってんのさ。あんた、こないだあたしを何時間待たせたと思ってんだい。ちょっと位我慢しな」
「これだから女は困るんだ。いいか、あれはだな・・」
 それらは彼に背を向け、徒歩でその場を去ってゆく。少年の声が、遮る物の無くなった周辺に遠く反響する。うるさいよ。それを遮る少女の声が微かに届く。やがてそれらは完全に消え、辺りは静まり返る。
 地を行く風の音がする。
 彼は自身が未だ聴覚を失っていないらしいことを知った。視力は既に失くしたと思ったが、瞼を開くと、視野一杯に明るい青が広がり、雲がすっかり切れたらしいと分かった。だが、それはすぐに狭まり始めた。端から中心へ、侵食される。気付くと、風の音も消えていた。
 終わるか。
 だが彼は、暗転した視界にその青を確かに描くことが出来た。唇に、柔らかな感触が甦る。
 またお前か―
 どうやらそれが最後の景色なのだと悟り、彼は、自分を嗤った。


 特設ページ跡地TOP