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 かすかな軋みに、まどろみから引き戻された。
 瞼を上げると、枕元の薄暗い照明の下、男の背中が目に入る。寝返りを打ったところなのか、彼の肌を擦ったシーツが再び沈黙してゆく気配があった。
 最後になるのだろう。
 男は明朝発つ気でいる。彼女には確信があった。そして絶望的に高い確率で、彼は二度と戻って来ない。


 この夜も、言葉は交わしていなかった。
 彼らは常のごとくただ黙って互いを探り、奪い、与え、貪った。果てに意識を失う瞬間、彼女は強いくちづけが自分の肌に落ちるのを感じた。わずかに痛みを伴うそれは印を残すだろう。彼女は朝、鏡の中にその軌跡を見出すのだ。彼と共寝した翌朝、いつもそうであるように。
 彼らの夜には、彼女が時折うわごとのように口にする彼の名前の他には、言葉といえるものが無かった。実は自分でも意外だったのだが、彼女はそれを不満だとは感じていない。昼も夜も饒舌な、優しい恋人と長い間一緒にいた彼女にとってそれが新鮮だったから、という訳ではない。彼と彼女が重なり合って共有するこの空間では、彼はとても正直になった。どこの誰が何万回重ねるどんな言葉であろうとも、無口で無愛想な男の、嘘のつけないその体が彼女にもたらす満足には、きっと及ばないのだろうと思う。

 男の肩が、暗い照明の光を鈍く跳ね返していた。静かな呼吸に併せ規則正しく上下するそれに、そっと触れる。指先に微かな痙攣が伝わり、彼の睡眠を妨げた、あるいは彼がまだ眠ってはいなかったことが知れた。静かに体を寄せ、その背を抱く。男は身動ぎ(みじろぎ)しない。拒まれてはいないようだった。
 それは未だしっとりと熱く、しばしば彼女が彼について感じて来たことだが、妬ましいほどに滑らかだった。最近の戦いで負った大きな傷跡が一つ残っていたが、それは周囲の皮膚の美しさを却って強調している。彼女は薄く盛り上がるその傷跡に唇を寄せた。斜めに走るそれに沿ってついばむようにキスを落とす。こそばゆいのだろう、男が低く呻ってわずかに身体を捩(よじ)ったが、彼女は愛撫をやめなかった。
 が、それは突然途切れた。
 大きな傷は、刃物によるものではないからなのか、先細りして消えるのではなく引きちぎったように終わっている。その一際盛り上がった終点に唇が触れたとき、彼女は不意に理解した。
 このひと、こんなふうに逝くんだわ。
 息苦しさを覚え、彼女は音を立てないように喉に空気を流し込んだ。ゆっくりと吐き出すと、耳の奥の方でしいんと静けさが響く。男の背に耳を寄せると、力強い鼓動がそれに取って替わった。
 明日は沈黙するのだろう。そう、思うのに。
 彼らの関係が何と形容されるものであるかは分からないが、共に住んで五年になる。そのうち三年をこうして過ごしてきた。子供も産まれた。なのに今、彼女の心は凪いでいる。焦燥も、悲しみも感じなかった。ただ事実が突きつけられたとき、奇妙な静寂に脳髄まで侵された自分のどこかが破れ、悲鳴を上げるのではないか、というぼんやりとした予感がある。
 目の端で、傷が蠢(うごめ)いた。彼女が瞼を上げるのと、男が半身を起こすのは同時だった。
「―――」
 彼は起き上がって肩越しに振り返り、切れの長い目で隣に横臥する彼女を凝視した。強い視線に思わず目を伏せそうになったが、かろうじて受け止める。薄暗がりの中、黒い睫毛が微かに揺れ、彼の視線が彼女の小さな顔の上を移動していることが分かった。目、鼻、そして彼女が密かにセックスアピールの塊だと自負している唇。視線は暫くそこに留まってから彼女の輪郭に移り、枕に落ちる髪をなぞって、瞳に戻って来た。
 男が薄く唇を開く。何か言葉にしようとしているのか、それが微かに震えた気がする。なあに。彼女は神経を集中させ、その言葉を聞き取ろうと耳をそばだてる。だが彼は結局言葉を発することの無いまま薄く瞼を伏せ、顔を逸らしてしまった。
 いや。
 彼女は思わず男の腕に触れ、彼を呼び戻した。彼らは再び視線を交わす。そして、彼らが土砂降りの雨の中で初めてそうしたように、言葉を交わさぬまま唇を重ねた。声を発した瞬間何かが崩れてしまう気がして、彼女は夢中で彼の口を塞ぐ。彼が何を言葉にしたかったのかは分からなかったが、聞かずに済んで良かったという気もした。
 忘れまい。
 一つひとつを憶えていよう。そうせねばならない、と思った。明日、彼を失ったことを悟るだろう彼女自身の為に。腕の中の身体の熱さ。沈黙の中で彼が彼女の身体に残してゆく、その遺言のすべて。
 瞳の闇に、白い姿が揺れ動く。彼女はふと、考える。
 最後に何が映るだろう。
 だがそれは一瞬だった。近付いてきた自らの姿に、彼女は、瞼を下ろした。


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