ひんやりと、どこか悲壮な

〜サイヤ人―社会学的見地からの考察〜

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どこに書いたのか見失ってしまってたのですけど、先日発見したのでチョチョっと編集してUPします。
呟きすぎてキモ長くなってしまったので、ハズカシ紛れに↑と呼んでみました(てか社会学ってどんなの?)
(Blog08.9/15『ひんやりと、どこか悲壮な』加筆・修正)


 サイヤ人の特性を表す台詞として、「仲間だろうが親だろうが兄弟だろうが(殺る)」みたいなのが多用された時期がありますが(ラディッツ登場〜強襲サイヤ人あたり)、あれってちょっと「そうなの?」とか思われたことありませんか。

 同朋や親兄弟といった人達と戦いになる、殺るか殺られるかという事態に至る、ということはあると思うんですよ。殺伐とした話ですけど、地球でも普通によくある話じゃないですか。けどこう、↑のような台詞って、そういう意味でというよりも、よく肉親や同朋の間に特別な繋がりが無いというような解釈がなされてますでしょう。それってホントにそうなのかなと。
 それが嫌、という話ではありません。(生物として説明の難しい面がある気はしますけども、それ言い出すとますます収拾が付かなくなるから置いといて。)ただ原作にせよアニメにせよ、あまり説得力のある言葉じゃないように思うんです。あれは単に、彼らの持つ一種の冷酷さ(と地球人には感じられやすい特質)『子供にでも理解しやすいように表現する』手段にすぎないのじゃないかと。

 我々が原作・アニメ共にサンプルとして観察できる(最初から御大によって命を与えられた)純血サイヤ人と言えば、ベジ・ナパ・ラディ、あと悟空さの四名のみな訳ですが、少なくともベジータ以外の二名にはそういう性格付けはされていないように思われます(悟空さは言うまでもないので頭数に入れず、二名)
 ラディッツは、ベジとナパが自分を生き返らせてくれると思っていたようですし、ナパだってベジが助けてくれるものだと信じ込んでて、その信じていた相手に結局殺されてしまった。四半世紀行動を共にしてきた彼にして、ベジのあの行動は実に“思いもよらなかった”わけで、少なくともナパの思うところの『サイヤ人の平均的行動』ではなかったのだと考えられます。つまり誤解を恐れず言うと、冒頭の「仲間だろうが・・」のような性質ってベジータ特有のものじゃなかったのかな、と。

 平均的サイヤ人(下記を御参照下さい)であるラディ・ナパと、ベジのこの温度差をもたらしたもの、それが『生い立ち』なんでしょうね。平民・貴族と王族、という手の話じゃなく、どういう環境下で大人になったのか、という。
 これについては、ベジが母星を失った5歳以降は無論ですが、おそらくはもっと幼年の頃を考慮に入れる必要があると思われます。ベジは物心つく頃から父王の、『フリーザとの関係がもたらす苦悩』というものに間近で触れてきたと考えられ、他二名をはじめとする平均的サイヤ人とは全く違う幼年時代を送ったはずだからです。

 アニメスペシャル限定の話になってしまいますけど、ベジは小さな子供(5歳)でありながら、自分の置かれた状況を完全に理解しています。遠征に出発する際、「しっかり働いてきてくださいね」と声を掛けるフリーザに「ありがとうございます」と慇懃に敬礼し深々と顔を伏せたまま、しかし物凄い表情で彼を睨みつけていました。自分は人質で、こうして踏みつけられることに今は耐えねばならなくて、現状ではどうやってもこの状況をひっくり返す事は不可能で、そうするためには自分はサイヤ人として限界を超えた力を手に入れなければならない。あれはつまり、そういう事をあの場に至る以前に全て理解し、理性的・意志的に行動していた事を示す場面なのだと思われます。
 彼は一族が置かれた現状というか、父王とフリーザの関係をかなりの部分まで理解していたのではないでしょうか(そしてこのことで、どうしようもないと解ってはいても、父王を蔑んだり軽んじたりする部分が気持ちの中に生まれた事も否めないでしょう)。そうやってど真ん中で真実を見聞きしてきた、翻弄されてきたという事実が、彼の幼年期、ひいては彼という人間を形成する上で大きく影響したのは間違いないと思います。対してナパやラディは、そうした環境にはおそらく居なかったわけで。

 話が前後してしまいますが、上記ではそのナパやラディがサイヤ人としてごく“普通の”環境で成長した、という前提で話を進めてます。同族との依存関係やその程度などは(彼らの幼少時代が描かれていない以上)不明ですが、ともかくサイヤ人という種の生き物として平均的な、普通の環境で育った、という。
 普通の環境というのはまあ、まず拠って立つ故郷がある、周囲に倣うべき大人がいる、多かれ少なかれ、彼らに保護されてもいる(サイヤ人にそういう哺乳動物としての本能が皆無だったとも考えられないので)、そういう中で、サイヤ人なりの―ラディやナパが抱いていたような―仲間に対する依存心・連帯感・信頼関係といったようなものが成立してゆく環境、でしょうか。

 ベジータには、こういう環境が無かった訳ですよね。
 ナパやラディは、(血統と力を至上のものと考えるサイヤ人としては)年齢は上でもベジにとって倣うべき先達とは言い難く、そこに主従関係以外のものが生まれる余地がありません。父王がこの範疇に入っていたかもしれませんが、彼は如何せん早く逝きすぎた。ベジータと上下関係以外の関係を築くことが出来たのは、それこそブルマ(あるいは悟空さ)が最初なのではないでしょうか。
 つまり地球人的価値観で見ると普通でももう十分にぶっ飛んでいるサイヤ人達の中でも、彼は更に特殊で過酷な環境下で成長した訳で、そういう中で彼自身の口から語られたような、普通のサイヤ人には見られないような無機質で冷ややかな部分が育まれて行ったんじゃないのかな、と思うんですね。ああいう、周囲が全部敵(というか弱味を見せた途端いつ殺られてもおかしくない)という状況下であれば、思考や行動はクールにならざるを得ない。それが子供に可能か不可能かは、もう問題ではありません。出来なきゃ明日は無い訳で、けどそれが出来てしまった時点でもう子供ではないのであって、つまり彼は、たった5歳にして子供であることを捨てねばならなかった。

 ごちゃごちゃ書いてますが」、要は彼が(特にアニメで)よく口にする「俺たちはこんなに冷酷非情」みたいな性質というのは、実はサイヤ人のというより彼自身のそれ、更に言うと「フリ様軍で生き残るために体得しなければならないそれ」だったんじゃないんだろうか、という話です。
 ラディやナパは、本音を吐露したり感情を剥き出しにするなど軽率な行動も多く、考えや見切りが甘すぎる感があって、ああいうフリ様軍的“冷蔵庫体質”には馴染み切れていないように見受けられますが、ベジはこう、思考回路や価値観が彼らとは歴然と違います。そして↑のようにのたまう時ベジが基準にしてる“サイヤ人”とは、(己より下位の二人を基準にすることはなさそうなので)おそらく彼自身のことを指すのでしょうし、そういう訳で↑のような台詞になる、という事ではないでしょうか。

 サイヤ人という人達は(種族として見た場合)冷酷だとか非情だとか言うよりも、例えば他星人を狩る事に違和感とか罪悪感とか、全くとは言いませんけど、そういう後ろ暗さを覚えない人たちなんだと思います。価値観が違うのでしょう、彼らにとってそれはスポーツでありファイティングでありハンティングであり、あるいは我々が、
「あっ家の中に蟻が!見てろよコノヤロー」
と駆除剤を仕掛けたり、
「スズメバチの駆除をお願いしたいんですけど」
と役所に通報する程度の感覚なんだと思います。狩られる側から考えたらとんでもない『悪』な訳ですけれども、自分の都合で他の生き物を殺してるという意味では地球人のやってることもそう大して変わらない訳で。善悪なんて立場が変われば180度違いますから、まあそんなものなんでしょう。


 ということで(どういう事で?)、ベジータはやっぱり熱くてクールだという話でシメておきたいと思います。
 とりとめのない話にお付き合い頂き、ありがとうございました。