煙草

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 無人のラボのテーブルの上、彼の掌ほどの大きさの金属製の工具に、小さな箱が凭せ掛けてあった。
 女がよく口にしている煙草だ。ふと気を引かれ、手に取った。中身をケースに移し替えて持ち歩く事が多いようだったが、家の内ではこうして所構わず放置されている(女に言わせれば「配置してある」)それらを、彼女は気の向くまま好きな時に口にする。たいていはぼんやりと、時に苛々と眉根を寄せながら。
『それは何だ』
 いつだったかそう問い掛けた彼の言葉に、女はちょっと考えるように首をかしげて曖昧な笑顔を返した。
『場合によっては人生を豊かにするものかもね』 
 青い箱の尻を押してスライドさせると、黒煙草特有の濃厚な香りがたちのぼった。前後から重なっている銀紙を開くと、半分ほどの本数になった中身が、それでも存外規則正しく並んでいる。一本引き出して咥えると、舌の上に奇妙な味が広がった。やけにぴりぴりと刺激がある。苦味が鼻腔にまで達し、彼は思わず顔をしかめてそれを唇から離した。
「逆よ」
 背後の声に振り向くと、開き放しになっていた出入口近くの壁にもたれ、腕組みした女が彼を眺めている。作業服の少々開放的な胸元からは、常の如く彼女の肉体の豊かさが窺い知れた。
「貸して」
 ゆっくりとほどいた腕の片方を彼に差しのべつつ、女が近付いて来た。細い指が伸び、彼の手元から彼女のものを取り戻し、そのまま自身の唇に運ぶ。小さな嗜好品の描く白い軌跡が見えたような気がして、彼は軽く眉を顰めて二、三度瞬きした。
「ライターは?」
 女は器用に喋りながら、彼の背後のテーブルに目を遣った。ああ、あった。端から乗り出すようにして、中心近くに転がる安っぽいライターをつまみ上げ、女はしなやかな動きで身体を起こして手の中から小さな火を出した。 存外優美な仕草は、彼女を知る者にはきっと新鮮に感じられるだろう。この女は、時々そんなふうに彼を引っ掻いてみせる事がある。
 彼女は煙草を指に挟み、唇を開いて静かに煙を押し出した。ぷかりと宙に浮いた白い塊がゆるゆると崩れながら上昇する。天井近くで一定方向に流れるのは、この建物内の空気が常にコンディショニングされている証拠だ。
「はい」
 目を戻すと、女が吸口を彼に差し出していた。今しがた彼女の粘膜を離れたばかりのそれには、ルージュの赤い印が刻まれている。
「おいしい?」
 親指と人差指に挟んで受け取り、渋々といった調子で一口吸った彼を見て、女が目元を緩める。
「まずい」
「でしょうね」
 咳き込みたいのを堪え、煙草を咥えたままくぐもった声を漏らすと、彼女は薄く笑いながらまた手を伸ばした。彼の唇から抜き取ったそれを、再び自分の唇に差し込む。一口深く吸い込み、今度は脇を向いて細く煙を吐き出した後、彼に視線を戻した。
「身体に良くないのよ。知ってた?」
「だったら何故吸う」
 反問には答えず、女は黙って微笑する。
 何を考えてる。
 表情は読みやすい。最初はそう思っていたが、その白い顔に浮かんでいるものが必ずしも彼女の内面そのままでは無いらしい。その事に気付いてから、彼女に対するときは、自然探るようにして瞳を覗くようになった。だがその奥にあるものが見えた例(ためし)など無いのだ。それでもそうする事をやめようとしない自分は、単にこの女の持つ珍しい色合を気に入っているだけなのかもしれない、とも思う。
「間接キスね」
 唐突に言い、女が顎を突き出した。下目使いに視線を流し、唇を収縮させる。
「下品な」
 卑猥な顔つきと、投げてよこしたあからさまな音に零した言葉だったが、女は何を取り違えたのか声を上げて笑い出した。
「キスが下品なの?」
 何て可哀想な人なの。渋面を作ったまま胸の前で腕を組んだ彼に向かって、彼女は芝居掛かった大袈裟な物言いで腕を大きく広げてみせる。
「キスの無い人生なんて!」
 女はいやいやと首を振り、腕を広げたまま彼に近付いた。そのまま抱くようにして、彼にすいとくちづける。あまりに自然だったせいか、彼はその挨拶を何の抵抗も無く受け取ってしまった。
「あら、ホントに初モノ?」
 身体が離れてから、事実が脳に達した。俺は今どうなってたんだ。隠せたつもりだったが、しっかりと狼狽が表情に出ていたのだろう。それをどう取ったのか、女が目をぱちくりさせて彼の顔を覗き込む。
「へええ、そうなんだ」
 顎を引いて小刻みに頷きながら、彼女は一人で納得してしまった。
「煙草にキス、今日は二つ覚えた訳ね」
 でも重要なのは後のほうよ。煙草は誰にとっても無くてはならないってものじゃないわ。女はテーブルの上にあるアルミの灰皿を引き寄せ、指の間で短くなっていた彼女の必需品を押し付けて火を揉み消す。
「どっちにしても、あんたもう煙草吸えないかもね」
「・・どういう意味だ」
「ラテン男の名言よ」 *
「ああ?」
「おやすみ」
 また明日ね。訊き返した彼にさっさと背を向け、ひらひらと手を振りながら女は部屋を出る。彼女のオーバーアクションで床に散った灰を見下ろし、暫く立ち尽くしてその言葉を反芻したが、何の事だかさっぱりだった。
 訳がわからん。
 首を振りながら腕を解き、部屋を出ようと踵を返し掛けた目の端に赤い色が映り、彼は動きを止める。
 女の残した吸殻は、銀色の皿の中でいびつな形に折れ曲がっている。彼が咥え、肺に空気を誘い入れた小さなそれを通し、確かに彼女も呼吸した事を、白い吸口に残った鮮やかな色は誇示していた。
「どこが旨いんだ」
 何故こんなものを口にしたのだったか。喉にあるいがらさを吐き捨てるように咳払いする。そして顔を上げ、向い側奥の壁にかかる小さな鏡の中、遠くに自分の姿を見出し、彼はぎょっと目を剥いた。
(くそ)
 唇に移った女の色を手の甲で拭う。薄明るい廊下で振り向いた彼女の口元にうっすらと浮かんだ笑いを、呪わしく思い出した。
「ふざけやがって」
 肌に移った色を服の裾で拭いながら小さく舌打ちし、低く吐き捨てる。何故か女にそこから覗かれているような気がして、彼は鏡を睨みつけた。



 * 「初めて煙草を吸った同じ日に、初めて女性とキスをした。それ以来、私には煙草を吸う時間がない。」
   (アルトゥーロ・トスカニーニ氏の言葉)


 2006.6. 2 (SSBlog掲載)
 2006.8.12 (編集後分をMENUに掲載)



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