ハライソの午後

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 紫檀の重い扉を開くと、その香りが鼻腔を突いた。
 軽く嘔吐を催す、甘くすえたようなにおい。部屋の壁からじわじわと滲み出しているかのように、この場所からはそれが消えた事がない。来る度に、奇妙に息が苦しくなった。何か得体の知れない生き物の胃袋に閉じ込められ、少しずつ溶かされているような気がする。
 『またやってるのか』
 部屋の中央付近に鎮座する長椅子に、女物の黒羽二重を引っ掛けた男が長々と横たわっていた。神経質そうな指先で助六煙管を弄びながら、とろんとした表情で唇に吸口をあてがっている。
 『その草はよせって何度も言ったじゃねえか』
 気付いていないのか、男は彼の方を見ようともしなかった。大きくはだけた胸元から、滑らかな肌がこぼれている。その脇には、座面に突っ伏すようにしてこれも半裸の女が一人、レエス越しの花曇りの中眩しく白い背中を晒して、床をのたうつ金襴帯の上で尻を投げ出している。眠っているのであるらしい。肩の辺りで切り揃えた髪は珍しい色を纏い、規則正しい呼吸に合わせて真昼の光を撥ね返している。
 天井付近で、大きなファンが澱んだ空気をゆっくりと掻き回している。無造作に配置されたブロンズ彫刻や、繋いでいた糸がちぎれて床に散乱する真珠の粒を避けながら―完璧にという訳にはいかなかったが―近付く。煙管の雁首から鼻先に漂い昇った煙に顔を顰めた彼を見て、男がくすくすと小さく笑った。
 『笑い事じゃねえ。こんな事ばっかやってたら、そのうち死んじまうぞ』
 煙管を取り上げてへし折り、足元にあった煙草盆の上に放り投げる。その拍子、ハシシュ入りの刻み煙草が火の点いたまま緋絨毯を転がり、辿り着いた先で小さな焦げ目を作った。
 『ああ、やってくれる』
 『弁償しろってんならしてやるさ。ただしお前もちょっとは俺の言う事を聞け』
 仁王立ちする彼を見上げ、男は鼻を鳴らす。
 『煙管なら何とかなるかもな。だが貴様の安月給じゃ、一生掛かっても絨毯は無理だ』
 『この女はどうした?攫って来たんじゃねえだろうな』
 『まさか』
 男は緩慢な―良く言えば優雅な仕草で、腹に置いた右手を持ち上げ、脇にある女の頭を愛しそうに撫でた。紫色の髪の中をつつと滑る指先に、女が覚醒して顔を上げる。
 『綺麗な女だろう。一目で分かったさ、こいつの血は最高だってな』
 そうだろう?彼の低い囁きに、彼女がうっとりと微笑んで右腕を差し出した。ほっそりした手首に、小さなどす黒い傷跡がある。開いては塞がり、塞がった途端にまた開き、を繰り返したに違いないその部分に優しくくちづけると、男は躊躇せずに歯を立てた。
 『う・・』
 紅く塗られた唇から、苦痛の呻きとも快楽の溜息ともつかぬ、小さな声が漏れる。白い腕を走って滴り落ちるものを、男は実に美味そうに舌で受け止め、口の中で転がしている。
 『・・てめえはホントに悪趣味だよ』
 男は喉を鳴らして笑いながら、女の手首越しに彼を見上げた。どこか猥褻に纏わりつくその視線を振り切るように、反吐が出そうだ、と顔を顰めて吐き捨てる。吐き捨てながら、自分の右手首がぴくりと痙攣したのが分かった。ふと意識を向け、彼に貪られているような感覚をその部分に覚えている自分に気付く。
 (やべえな)
 既に喰われ始めているのか。女の恍惚とした表情に己を重ねながら、この部屋の吐き出す空気にどうやら慣れ始めたらしい自分に、彼は思わず身震いしていた。


2006.9.29 (Blog掲載)
2007.5.26 (編集後分をMENUに掲載)



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