朝の陽射に君がいて

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 ベジータが朝寝坊している。
 昨夜は随分遅くにベッドに潜り込ん来ていたようだ。近頃の彼の規則正しさといったら、彼らの息子などが時計代わりにしている位のものだったから、ちょっとした珍事だった。
「あら、今朝は随分ゆっくりね」
「え?・・・げえっ、もうこんな時間なの!?」
 父親がダイニングに現れないので油断していたのだろう、のんびりコーヒーを啜っていたトランクスは、彼女の言葉に時計を確認し、慌てて立ち上がる。
「もう、パパどうしたんだよ」
 困るんだよ、いつもとちがう事されると!彼はぶつぶつこぼしながらナプキンで口元を拭い、あたふたとソファに駆け寄って黒いショルダーバッグを引っ掴んだ。入れ替わりに食卓に着いたブルマが、慌ただしいわねと少し肩をすくめる。
「行ってらっしゃい。あんまり飛ばすんじゃないわよ」
 こないだみたく人様の車を壊さないようにね。トーストの上でとろけているチーズに半分意識を奪われながら、息子を送り出す。
「分かってるよ、毎朝おんなじこと言わなくても!」
 廊下を遠ざかりながら不機嫌そうに叫ぶ声に、彼女はサラダを差し出す母と顔を見合わせて笑った。

 食事を済ませ、荷物を取ろうと部屋に戻ったところで、彼女は折悪しくそれを目撃してしまった。
(ああ、あたしだって急いでるのに)
 急いでいるのに、どうしても素通りできない。薄く口を開いたその寝顔に喉の奥を擽られ、足音を忍ばせて彼らのベッドに近付く。
 燦々と射し込む朝陽の柱の傍、シーツのまろやかな襞に抱かれ、男が安らかな寝息を立てている。一緒に暮らし始めてから随分時間は経っているが、彼は常々バカみたいに早く起床するので、こんな場面に遭遇する機会などほとんどありはしなかった。
(幸せそうな顔して)
 昔は誰に対しても―とりわけ自分自身に対して―傍目に痛いほど厳しかった。その彼が、今こうして至福のまどろみを貪っている。毎日顔突き合わせているくせに、と他人が聞いたら笑うだろう。だが彼のこうした姿に接すると、彼女は我ながら可笑しいほど幸福を感じ、癒されてしまう。
『仕事もしないの?じゃ主夫?』
『まさか』
『それじゃ毎日家で何してるのよ』
『トレーニングね』
『何の』
『ファイティング』
『あーぁ・・アンタの趣味よね、例によって格闘家なわけ』
『そんなとこよ』
『ねえ、純粋な興味なんだけど』
『なに?』
『あんた、その男のどの辺りがいいの?』
『あら、何て答えて欲しいの?』
『・・もう、ふざけないでよ!真面目に訊いてるのに』
 眉を顰めつつ吹き出した友のハスキーボイスが、耳の奥に甦った。歯に衣着せぬ物言いが好きで、彼女がずっと友人でいる数少ない女の一人だ。黎明の森のような、時に陽に透ける林のような瞳も、神秘の宝石みたいで魅力的だった。だが素直にそう感じるようになったのは最近の事で、昔はその美点が鼻についたものだ。
『あら、重要な事じゃない』
『そりゃそうよ。だけど、それだけでこんなに長続きするもんじゃないでしょ。あんたには悪いけど、あたしああいう類の男の良さってよく解らないの』
『あんたが思うほど馬鹿ばっかりじゃないのよ、“ああいう類の男”ってのも』
『だろうとは思うんだけど。幸か不幸か、あたしは当たりが悪いわ』
『そうみたいね』
(もったいない話)
 インパクトのある経験によって染み付いた偏見(あるいは知恵)は、そう簡単には洗い流せないものだ。あの綺麗な女は一生、こうした肉体美を持つ男を軽んじ、退け続けるのかもしれなかった。ベッドの縁に静かに腰を下ろし、芸術的な身体のラインを視線でなぞる。夢でも見ているのか、彼が眉根をぴくぴくと痙攣させた。
「ふふ」
 タイミングの良さに、顔がほころんだ。まるで彼女の視線に反応しているみたいだ。こめかみから指をさしいれ、頭皮に触れないようにそっと髪を梳く。地球人の頼り無いそれと違い密で硬い体毛は、大型の動物を連想させた。慣れない手触りに、最初、獣にのしかかられているような感覚に襲われる事があったものだ。
「いい子でね」
 囁いて、彼の手触りをもう一度味わう。それから起こさないよう気をつけながら、唇で唇をふわりと撫でた。隙間から漏れる温かな息が気持ち良くて、彼女はその優しいキスを二度、三度と繰り返す。
(あー、もうホントに行かないと)
 だが名残を惜しみながら身体を離そうとすると、予想していなかった事が起きた。
「ちょ・・」
 むうと一声低く唸るや、ベジータが突然彼女の両腕を拘束したのだ。寝惚けているのか、そのままぐいと引き寄せる。慌てて起き上がろうとしたが、背中に回った左腕にがっちり固定されてしまい、彼女は完全に上半身の自由を失ってしまった。
(こんな事やってたら間に合わないじゃないのよ)
 彼女は焦って身体をずらそうとするのだが、どこをどうすればそうなるものなのか、痛みもないのにほとんど動けない。
「ちょっと、ね、お願・・」
 と眠っている相手に懇願しかけて気がついた。
「・・あんた、起きてるでしょう」
 ベジータは尚も瞼を下ろしたまま、規則正しい寝息を立てている。だが顔と言わず首といわず、頭を動かせる範囲のすべてに今度は音を立ててキスしてやると、男はついに唇を歪めて薄く目を開き、掠れ声で呟いた。
「・・下品な音だな」
「やだ、すごい」
 ルージュの色があちこちに散り、男の顔は赤い濃淡の斑模様になっている。唇にもばっちりと色が乗っていて、たまらない可笑しさだ。分厚い胸板の上で身体を痙攣させて笑う彼女に、彼は怪訝そうに眉を寄せた。まだ覚醒し切っておらず、何故笑われているのだかよく解らないらしい。
『前の彼とも長かったわよね』
『そうね』
『で、どうして別れたわけ?浮気、は昔っからよね、彼』
『うん、気が多かったわ、あいつは』
『ついに我慢できなくなった?』
『さあ。単にタイミングよ、多分』
『まあ、上手く逃げるわ』
『ホントの話だもの』
『幸せそうね』
『そう?』
『ええ、すごく素敵な顔してる』
『昔は違ってた?』
『あんたは“絶対不幸にはならない女”よ。あたしとおんなじ。でもそうね、違ってたわ』
 そう言ってコーヒーカップに伸ばした右手は昔と変わらず白く、溜息を誘うほどすんなりと優美だった。科学者であり技術者であるブルマには ―いや、生まれ持ったものが無ければ―、どう努力しようと望むべくもない。もう自分に無いものを数え上げて落ち込むような歳でもなかったが、少女だった頃は、この女友達は彼女に羨望を抱かせたほとんど唯一の相手だった。
『まあね、それなりにハッピーだと思うわ。不満が無いって言や嘘になるけど』
『嘘おっしゃい』
『なに?』
『“それなり”で満足する女が、ドラゴンボール探しだなんて。ありえないわ』
『あら、そう言やそうね』
『あの時はハッキリ言って馬鹿じゃないかと思ったわよ、あんたのこと』
 彼女らはそこで、どっと笑い合った。ダイニングから顔を出した母が、ソファの上で腹を抱える二人を見てあらまあと眉根を開く。
『で、あんたは?』
『なあに?』
『幸せじゃないわけ?』
『・・いいえ』
 ブルマのように世界屈指の、という訳には行かなかったが資産家で、社交上手で有能で、何より美しい女である。トランクスなど、スクールに通い始めたばかりの頃だったか、リビングで初めて彼女を見掛けてぼうっと立ちつくしていた。背後を通り掛かったベジータまで、一瞬「ほう」という表情で足を止めた事を思い出すと、正直今でも面白くない。
 ブルマ自身はあまり好まない世界だったが、きらびやかなソサエティでは水を得た魚だ。艶やかな黒髪、最先端のプレタポルテ、ダイヤのチョーカー、大型クルーザーに高級シャンペン、スターや貴族たちとの華麗な恋愛劇。世界中の女達の見果てぬ夢を存分に生きる、そんな女。ブルマ自身は選び取る事のなかった、その人生。
『自分に素直に生きてるつもりよ。けどそれって、実は普通の人間には難しいのかもしれない。あんたを見てるとそう思うの』
『あらやだ、フツーだって。図々しいわよアンタ』
 と吹き出す彼女をみつめ、友人は華やかな笑顔でゆっくりと首を傾げてみせた。きっと死ぬまで彼女の記憶に焼き付いているだろう。そんな笑顔だった。
「行くわ。もう遅刻よ」
 浮気者はキライなんだから。そう言って彼の頬を抓り、腕の中からすり抜けて立ち上がった彼女に、ベジータは何の事だと言わんばかり不可解そうに片眉を上げる。
「今夜は遅いわ。先に寝んでて」
「・・なぜ今日に限ってそんな事を言う?俺はいつも勝手に寝んでる」
「あたしって幸せ者らしいわよ、ダーリン」
「ああぁ?」
 困惑を深める男を置き去りに、バッグを手に部屋を出た。階下まで一気に駆け下り、庭で水遣りする母に声を掛けてオープンルーフのエアカーに乗り込み、ルージュを手早く引き直す。
『今度はどこ?』
『地中海よ。気が向いたら来て。サー・ナルシスもお呼びしてるわ』
『遠慮しとく』
『あら勿体無い、美形よ。好きでしょ?格闘家じゃなくてジェントルマンだけど』
『もったいないのはそっち』
『ん?』
『任せるわ。実は目下恋愛中なの』
『まあ、誰と?』
『ダンナと』
『やあねもう、笑わせないでよ!』
 青い海を舞台に、今度はどんなニュースを振り撒いてくれるだろう。双眸のエメラルドを思い浮かべてうっすら笑い、ブルマはエンジンをスタートさせる。煙草を一本咥えたが、火を入れようか少し迷って結局助手席に放り出し、朝の街へと滑り出して行った。

2007.8.4



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