No.18

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 足元の方で、ベジータが身を起こす気配があった。クリリンの方はと言えば、その微かな呻きと砂の擦れ合う音を聞きつつ、疲労困憊して大地に転がったきり身動きも儘ならない。
「随分と気に入ってるんだな」
 低い呟きを、彼は最初独り言かと思った。が、そういう手の男ではないなとすぐに思い直し、眼球だけ動かして確認すると、ベジータが眉根を寄せ、朱に染まった自分の半身を鬱陶しそうに見下ろしている。
「・・ああ?何の話だ?」
「マニアだな。人形だぞ、あれは」
 男はひどく冷ややかな、蔑むような白い眼で彼を流し見て鼻を鳴らし、それから自分の膝にすがって立ち上がった。それきりもう興味が失せたのか、風に舞い上がる砂塵に一瞬顔を顰め、脇腹を掌で庇ったままゆっくりと背を向ける。
「ベジータ」
 呼び止めて、それでどうするつもりだったのか。だが幸いにも男は彼を無視して背筋を伸ばし、立ち止まりも振り向きもせずに砂を踏みしめて歩き始めた。いきなり飛ぶには身体に負担が掛かるのか。それほど深手ではなさそうだったが、腹に裂傷を喰らっている。どこか一人になれる場所で ―尤もこの人口密度では人に出会う方が難しいかもしれない― ある程度傷が癒えるのを待つつもりなのだろう。先程まで続いた半時間ほどの戦いで、近辺に形あるものは残っていなかったため、陽や風を凌げる場所まで徒歩で辿り着くには少々時間が掛かりそうだった。
 彼の方は、骨折は免れたものの、また脚をやられていた。これで二度目だ。甚振(いたぶ)って同じところを狙ったのかもしれない。脳内麻薬が作用してか未だ痛みは感じないが、小波のような違和感がじわじわと寄せて来ている。
「お前に言われなくたってわかってるさ」
 遠ざかる背が豆粒ほどになった頃、彼はようやくそう吐き捨てた。つもりだったが、彼らを点々と繋ぐ血痕の上には、我ながら情けなくなるような小さな掠れ声が、空しくしょぼ降るばかりであった。
「わかってるさ、そんなこと」
 彼の残酷な女神は、人間ではなかった。名前も持たなかった。行動を共にしている少年型人造人間は、彼女を『18号』とだけ呼んでいる。
「18号、か」
 呟くと、無機質な響きにか余計気分が落ち込んだ。だが、そんな無味乾燥な記号こそが似合いなのかもしれない。端から人工生命体ではなく人間だった事があったのかもしれず、だとすれば親にもらった名前があったのかもしれないが、彼女はもはや『人』ではない。そんな“不完全”だった頃の名など、湿気た残り滓でしかないのかもしれなかった。
(なんで生き残っちまったんだろ、オレ)
 あと何度、こんな事を繰り返すのか。傷が癒えたら―いや癒えなくとも、また立ち上がらねばならないのだろう。他に選択肢を持たない己の運命が呪わしく、彼は深々と溜息をついた。時々、先に逝った仲間が羨ましくなる。不毛すぎるのだ。正直―
 早く楽になりたい。
 とすら思ってしまう。その都度自分を奮い立たせる事にも、もう疲れた。
 最大の問題は、敵のエネルギーが無限であるらしい事だった。そのせいで、戦闘開始直後はともかく、終了間際にはベジータでさえ玩具のように弄ばれる。だが、戦おうと戦うまいと結果が同じであろうとも、万に一つの可能性にでも掛けてみるしかないのが哀れな人間である、という事であるらしい。彼らは人造人間出現のニュースが流れる都度、殺戮と破壊の現場に駆けつけてしまう。
(いや、あいつは違う)
 自分はそうだ。悟飯もおそらくは、絶望しそうになる己を幼いながらも叱咤しつつ。だが、ベジータは違っている。
 蝶みたいだ、と彼は思っていた。憧れ抜いた花の蜜に吸い寄せられるように、血風の中に舞い降りる。蜘蛛の糸に身投げするかのようで、その姿はどこか病的にも感じられた。名を付けるなら戦闘中毒、あるいはアドレナリン中毒症とでも言おうか。理由など知れたことで、飢えていたのである。精神は芯まで冷えてしまっているというのに、あの男の肉体は今なお戦いを求めている。
「因果なやつ」
 ベジータは変わった。多分、孫悟空の死を契機として。
 実感できるのだ。戦いの最中(さなか)でさえ、男はどこか冷えびえとしている。ナメック星での共闘が、奇妙に懐かしく感じられた。今はもう、共に戦う熱すら無い。同じ戦場に居合わせる、というだけのことだ。ただ、戦う。本能が要求するまま。極端な話、あの男にとってそれは飯を食ったり眠ったり、女を抱いたりするのと変わらないのだろう。
(・・わかんねえなあ)
 女と言えば、今も不思議でたまらない。ブルマは一体、何に納得してあの男を受け入れているのか。共有できるものなど、一つもありそうにないというのに。それとも、女とはそうしたものなのか。冷えた男が傍に居れば温めてやりたいと思う、そういう―
 そう考えた途端、彼の脳裏で燻っていた薄紫が、輝くような黄金に変わる。
「ダメだ」
 不意に湧き起こった妄想に、彼は小さく喘いだ。あれは敵だ。仲間の仇だ。彼の住むこの星を着々と地獄に変えつつある、死神だ。
「・・ヤバいよ、俺ぁ」
 思わず、泣き声が漏れた。隠し通そうと思っていたのに(誰よりも自分にだ)、もうベジータにすら露見している。一応戦士である、という事以上には、彼個人に露ほどの関心も抱いていないだろう、そんな他人にまで。
 初めて見たときの、あの衝撃は忘れられない。全身の皮膚が粟立った。
 滑らかな肌には傷一つ無く、それが無防備なまま陽に晒されている事にこちらが焦りを感じるほど、白い。アイスブルーの瞳は冷たく底光りしているのに、それでいてどこまでも無垢である。腕や脚もすんなりと、成熟する一歩手前で永遠に凍りついた、青く透明な姿。たおやかに風に揺れる黄金の髪が、初めて知る痛みで彼の心臓をきりきりと絞る。この時から、彼は実に甘美でおぞましい幻想に悩まされるようになったのだった。
「・・ひでえモン作ってくれたぜ、ゲロのやろう」
 柔肌を、血の温度を、尋常ではない―とりわけ彼にとっては絶望的な―美を、自らの作品に与えた。製作者は確かに狂っていたのである。ゼロから作り上げたのなら言うまでも無く、もしも人間の肉体をベースにしていたにせよ、殺人兵器たるあれらにああまで人間らしさを残したのは、人造“人間”としての完璧を求める科学者の芸術的狂気に違いあるまい。そこまでやるならもっとグロテスクに、心をも残しておいてくれれば良かったのだ。そうすれば彼らは、いつかあれらが自分達の行為に嫌気の差す日を迎えられたかもしれないのに。
『禿頭はキライだよ』
 台詞とは裏腹に、女神の囁きはあくまでも優しく、ひんやりと甘く彼を絡め取る。弓形に和らいだ氷の、長い睫毛に縁取られた、その美しさ。うっとりと殺されかけた彼を救ったのは、彼の名を叫ぶ悟飯の声だった。
 だが早晩、こんな思いからは―絶望と羞恥と罪悪感と救いの無い慕情から―解放されるだろう。彼はきっと、この罪を命で贖う事になる。そしてそれは、彼にとっては同時に救済なのだった。
「・・ゴメンな」
 残される事になるだろう少年への謝罪が、我知らず声になる。
 おまえにばかり、未来を託してすまない。
 いつだったか、少年の父にもそう言って詫びた事があった、と思い出した。瞬間、郷愁にも似た想いが、胸の中を吹き過ぎる。
「悟空―」
 無念に、いや思慕にだろうか。目頭がじんと滲んだ。それは彼らがまだ太陽に抱かれていた頃、もう本当に遥か昔の、眩しく懐かしい思い出なのだった。


2007.9.24



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